「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

ご無沙汰しました。
私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。
タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。
リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。

《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。
 『太平記』は三部に分けて考えるのが一般のようで、『読む』も『中公』もそのようにして説いています。第一部は巻第十一までで建武親政のなる過程を語り、巻第十二の後醍醐帝の建武親政から後醍醐帝の崩御を語る巻第二十一までを第二部、巻第二十二以下終わりまで、主として鎌倉幕府の内訌を語る部分が第三部とされていて、なるほど、これは分かりやすい見取り図です。
 『読む』はそこに貫かれる作者の歴史観を見ようとして、第一部に「大義名分の理念、道義的な政治観」、第二部に「『因果業報』の思想」を見るのですが、第三部は「動乱は、終息するどころかいよいよ支離滅裂の状態に陥ってしまい、敵も味方もいつ寝返りするが分からないような不安定な対立関係が日常化してくる」として、「何を基準にして統一的に捉えることができるか、そのめどさえつかなくなったかのように見える」と言っています。
 「かのように見える」とあるので、では実際はどうなのかと読み進めると、結局、「改めて『太平記』四十巻を読み進めて、その全体像と対面することが先決」と言って終わっているようです。
 私は読みながら、この作者は事柄や人を統一的に捉えようとはしていないように思いました。後醍醐帝や大塔宮、楠正行、細川清氏などに対する時々の評は、その都度全く相容れないようなものさえありました。この人は、同時代に起こっている出来事を、目を見開いて見、そこに自分のその時々の思いを添えて書いたのであって、内にある一定の思想をもってそこから見るとか、あるいは見たものからその核心をつかみ取り、それをある思想に収斂するといったようなことはしなかった(できなかった)のではないでしょうか。
 途中でも書きましたが、例えば、『読む』が挙げる「大義名分の理念、道義的な政治観」や「『因果業報』の思想」にしても、実は小林秀雄が『平家物語』冒頭の「無常観」について言った、「彼はただ当時の知識人として月並みな口を利いていたに過ぎない」という言葉が当てはまるのではないでしょうか。小林は、同著を「当時の無常の思想の如きは、時代のはかない意匠に過ぎぬ。…人々はその頃の風俗のままに諸元素の様な変わらぬ強い或るものに還元され、自然のうちに織り込まれ、僕らを差招き、真実の回想とはどういうものかを教えている」と結んでいます。
 『平家物語』が多くの語り手によって練り上げられたように、『太平記』は、ここまでまとめられた後に、改めてこの草稿に推敲を加えて決定稿にする段階を経ることによって、そういうものを生み出すはずだったのではないか、という気がします。
 しかし実際には、周囲からの様々な干渉があって、純化の道をとることができないで終わった、不幸な作品なのではないでしょうか。

 さて、かくして、今、長い長い「兵どもが夢の跡」をともあれ読み終わって、ほっと一息ついています。
 継続してお付き合いくださった方があったならば、厚くお礼を申します。また、たまたま覗いて下さった方には、日々のアクセス数は大きな励みになりますので、その点でご縁を頂いたことへのお礼を申します。
 ありがとうございました。
 これで一休みして、今度は、年が改まって四月の三日から、次のブログを始めたいと思っています。ここから覗いていただけるようにしますので、よろしければ、またおいで下さい。
 では、少々早いですが、いい年をお迎えになりますように。ごきげんよう。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。
 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知りたい説明や考察がなかったり、細かいことでは人名が列挙される時、フルネームと氏姓だけの人とが混在して不統一だったりして、いかにも不完全ですが、草稿と言われれば納得がいきます。しかし、そういう作品が、文学史に太文字で書かれて「古典」と呼ばれていることは、想定外でした。
 もちろん、古いものですから、一部が散逸したりすることは避けられず完本である作品の方が珍しいということはあるのでしょうが、作者自身としても、それらの箇所は訂正加筆されるべき箇所と思われていたのではないでしょうか。
 この作品は、大部分が書き上げられた後、幕府の人びとによって、幾度もさまざまに注文が付けられ、その度に改稿を余儀なくされたようで、作者としては、完成品を作り上げる意欲を失ってしまったのかも知れません。特に最後の第四十巻の話は、単に事実を列挙しただけのように素っ気ない書き方です。
 作者の人物評が、いささか場当たり的で、随所に矛盾があるように思われて、読みづらいことも気になりました。『集成』は、しばしばそれを作者の多角的な視点として考えているように注していましたが、私は実は、そういう意図的なものではなかったのではないかという気がしています。
にもかかわらず、物語を思い返せば、多くの人物の心を打つ生き様を見ることができました。私にとって最も印象的な場面は、新田義貞と楠正成の兵庫での対面の場面です(巻第十六・十章末)。わずかに「義貞朝臣まことに顔色解けて、通夜の物語に数盃の興をぞ添えられける」としか書かれていませんが、二人のたたずまいまでもが思い浮かべられる気がします。
 人物として最も記憶に残ったのは、足利直義でした。作中最も起伏の大きな生涯だったのではないかと思われる彼の一生には、甥の直冬をいたわる心情も含めて、強く心打たれるものがありました。
『太平記』は『平家物語』を強く意識して書かれていて、また比較して論じられることも多いようですが、『平家』が結局は貴族文化の中の雅な物語であるのに対して、こちらは土着の関東武者の物語であるという点では、大きくかけ離れた作品で、そういう意味では、其角の「太平記には月も見ず」は的確な評であるようです。その分、この作品がもう少し推敲を加えられてまとまりのあるものになっていたら、『平家物語』に対して、『源氏物語』に対する『今昔物語集』のような大きなポジションを与えられる作品になっていたかも知れません。》

このページのトップヘ