「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

 少弐と大友は菊池に九州を討ち従えられて、その支配の下に従うことを面白くなく思ったので、細川伊予守の下向を待って旗を挙げようと計画していたが、伊予守は崇徳院の御霊に罰せられて無駄死にしたと伝えられたので、勢いを失って動きを見せない。
 こうしているところに畠山治部大輔がまだ宮方には従わないで籠もっている六笠城を攻めようというので、菊池肥後守武光が五千余騎で、十一月十七日に肥後を発って日向国へ向かった。道中は四日ほどの道のりで、山を越え川を渡って行く先は険しく後ろは難所であった。
 少弐と大友は菊池の求めに応じて豊後の領内に出て勢揃えをしていたが、これこそよい機会だと思ったので、菊池を日向国へ遣り過ごした後、大友刑部大輔氏時は旗を挙げて豊後の高崎の城に上がった。宇都宮大和前司は、川を前にして豊前の道を塞ぎ、肥前刑部大輔は山を後ろに当てて筑紫の道を塞いだ。菊池は前後の大敵に取り囲まれてどこへ退きようもない。まったく籠の中の鳥、網代の魚のようであると、気の毒に思わない人はなかった。
 菊池はこの二十四年ほどの間、筑紫九国の者たちの陣立てや手柄のほどを、敵として向き合ったり味方にしたりしてよく承知していたので、後ろには敵が旗を揚げ道を塞いだと聞いたけれども、一向に問題にせず、十一月十日から矢合わせをして、畠山治部大輔の息子の民部少輔が籠もっている三保の城を夜昼十七日の間に攻め落として、敵を討つこと三百人に及んだ。畠山父子はすっかり頼りにしていた三保の城を落とされて、叶わないと思ったのか、本丸の城にも踏み止まらず、引いて深山の奥へ逃げ籠もったので、菊池は今回はこれまでと肥後国へ引き返すと、後ろを塞いでいた大勢の敵は全く向かってくることがなかったので、矢の一本も射ることなく、自分の館に帰ったのだった。
 これまではまだ太宰少弐と阿蘇大宮司は宮方に背く気配がなかったので、彼らに連絡を取って菊池は五千余騎を率いて大友を退治するために豊後国へ向かう。この時太宰少弐は急に心変わりして太宰府で旗を挙げたところ、阿蘇大宮司はこれに同心して菊池の退路を塞ごうと、小国という所に九ヶ所の城を拵えて、菊池を一人も討ち漏らすまいと計画した。菊池は兵糧運送の道を塞がれて、豊後へ攻め寄せることもできず、また太宰府へ向かうことも難しくなったので、「まず私は肥後に引き返して、その準備をしよう」というので菊池へ引き返したのだったが、阿蘇大宮司が作った九ヶ所の城を一つずつ攻め落として通り阿蘇大宮司が強く頼りにしていた味方の者たち三百余人が打たれたので、敵の通るのを留めるなど思いも寄らず、わが身の命をやっと助かって逃げて行った。


《来るはずだった伊予守が来られなかったことで、九州の内部で別の動きが起きました。菊池、少弐(職名で太宰少弐、ここは藤原頼尚だそうです・『集成』)、大友は、前章で触れたように懐かしい名で、かつて二十六年前、尊氏が京都を征し義貞が鎌倉で幕府を倒した頃、三人は九州探題を討とうと同盟を結んでいたのでしたが、少弐と大友が菊池を裏切ったために菊池は単独で探題に乗り込んで討たれ、後に少弐と大友が探題を討って、後醍醐帝に「朝敵」を討ったと報告した、ということがありました(巻第十一・五章)。因縁の関係です(なお前章末で、菊池武光の父の名を武光としていました。父の名が誤りで武時です)。
 ここの菊池武光(前節では肥前守とありましたが、ここでは肥後守)は、あの時討ち死にした菊池武時の八男だそうで、立派に父の恨みを晴らして復活していたようです。そして今また少弐と大友がその武光を討たんものと狙っている、というわけです。
 さて、豊後の大友は菊池の要請を受けて日向の六笠城へ兵を向ける振りをして出兵し、肥後から日向に向かう菊池をやり過ごして(ということは、菊池は熊本から東へ阿蘇を越えて大分から日向へ向かったのでしょう)大分郡廻間町高崎の城に兵を集めて、菊池の帰路を塞ぎました。宇都宮(「大分県日田郡の武士か」・『集成』)は、豊前の道を塞いだと言います。大友に同心したのでしょう。
菊池は前には目的の畠山、背後に大友と前後を挟まれた格好になりましたが、意に介さずあっさり畠山を討ってしまいました。「この二十四年ほどの間、筑紫九国の者たちの陣立てや手柄のほどを、敵として向き合ったり味方にしたりして」が、彼の長い苦節とそれによって得た修養のほどを思わせます。なかなかの人物のようです。
 菊池は、畠山を討てば九州全土から敵がいなくなると考えていたでしょうが、新たに大友の離反が明らかになって、今度はそれを討たねばなりません。モグラ叩きの様相です。そして大友を討とうと兵を出したところ、この度も二十六年前と同様に大友と少弐は密約があったのか、少弐が大友と同心、あわせて阿蘇大宮司もそれに同調して、離反が拡大します。菊池にとってはモグラ叩きだったものが燎原の炎に変わる兆しに見えたのではないでしょうか。やむなく菊池は、一旦熊本に帰って態勢を整えようと帰国しますが、道中、ついでにといった感じで大宮司勢を蹴散らして通りました。
 菊池武光は、豊後で囲まれた時もたじろがず、畠山も鮮やかに打ち破り、帰途には大友らの軍勢を睨み倒し、最後は大宮司勢をなぎ倒すなど、豪胆で戦上手のようですが、一方で、「九州を討ち従え」たとは言っても、まだ敵も多いようです。京都と関東はとりあえず鎮まった格好で、当面九州に目が向きます。》

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 今年の春、筑紫の探題として将軍に派遣された一色左京大夫直氏と弟の修理大夫範光は、菊池肥前守武光に敗れて京都へ上られたところ、少弐、大友、島津、松浦、阿蘇、草野に至るまで皆宮方に味方して、筑紫九国の中には、ただ畠山治部大輔だけが日向の六笠城に籠もって将軍方として残っていた。
 これを放っておいたら、今将軍の逝去に力を得て、菊池はきっと都へ攻め上るだろうと思われる。これは天下の一大事である。急いで討手の大将を派遣しなければならないだろう、というので、故細川陸奥守顕氏の息子の式部大輔繁氏を伊予守にして、九州の大将として派遣された。
この人はまず讃岐国へ下って、兵船を調え軍勢を集めた時に、延文四年六月二日、急に病になって、気が変になったのだったが、自ら、
「我は崇徳院の御領を攻略して、軍勢の兵糧調達の領地にしたことによって重病になってしまった。天の咎めが八万四千の毛穴に入って、五臓六腑に溢れているので、涼しい風に当たっても燃え上がる炎のようで、冷たい水を飲んでも沸き返る湯のように思われる。ああ、熱い、堪えられない、助けてくれ」と口走り、悲しみ叫んで悶え転げ回ったので、医師や陰陽師の看病する者は近づこうとするけれども、回り十mほどの中は猛火が盛んに燃えるように熱して、全く近づく人はいなかった。
 病みついて七日目の早朝、黄色い旗を一本立てて厳しく武装した兵千騎ほどが三方から鬨の声を揚げて押し寄せた。誰とは分からないまま敵が来たのだと思って、この間駆け集まって来た兵達五百余人が広い庭に出て激しく射る。矢だねが尽きると白兵戦になって、追いつ追われつ一時間ほど戦った。搦め手から寄せてきた敵かと思われて、紅の母衣を掛けた兵十余騎が大将細川伊予守の首と家来の行吉掃部助の首とを取って切っ先に突き刺し、
「憎いと思う者を皆討ち取ったぞ。これを見よ、方々」と言って、二つの首を差し上げると、正面の敵七百余騎は勝ち鬨を三声どっと揚げて帰って行くのを見ると、この寄せ手は天に上り雲に乗って、白峰寺の方へ飛び去った。変化の兵達が帰り去ると、これを防いでいた者たちは、討たれたと見えた人も死なず、疵を受けたと見えた者も無事であった。これは何とも不思議だと、互いに語って、しばらくすると伊予守も行吉も同時に亡くなったのだった。
 まことに末世とは言え、不思議なことである。

《崇徳院の霊は以前、観応の擾乱の火付け役として登場していました(巻第二十七・三章)が、またその前に、その魂鎮めが天龍寺建立の動機の一つとしても挙げられていました。落語「崇徳院」のネタになった歌「瀬を速み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」で名高いのですが、保元の乱の中心人物で、「敗れて讃岐に流され、その地に崩御した」(『集成』)ということで、現世に無念の思いを残して死んだ悲運の人で、こうして時々不穏な動きを見せます。
 繁氏の言葉が事実なら、たまたま讃岐に立ち寄った繁氏に対して、かつての繁氏の行いを恨んだ崇徳院の霊が、好機到来とばかりにその恨みを晴らしたということでしょう。配流の地で亡くなった天皇は他にもおられますが、この方の怨霊ばかりが出てくるのは、何か特別な事情があるのでしょうか。
 さて、ともあれ、これもまた、前の三人の重要人物の死と並ぶように、「幕府の先行きを予告するような不祥事」(同)です。
 なお、菊池肥前守武光は、後醍醐帝還御に合わせて、九州探題を討とうと謀りながら仲間の大友らに裏切られて探題館に単身斬り込んで討ち死にした菊池肥前守武光(巻第十一・五章)の息子だそうです。冒頭の「今年の春」は延文三年(一三五八)、あれから四半世紀が経ちました。》

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 同じ四月十八日、吉野の新待賢門院の女院がお亡くなりになった。一方の帝の国母でいらっしゃったので、帝を初め申し上げて全ての官吏が女院の御座所の月に涙を流し、後宮の露に嘆きの思いを寄せながら一体どういうことであろうかと涙を拭っていたところに、また同じ年五月二日に梶井二品親王がお亡くなりになったので、延暦寺の悲嘆や皇室の悲嘆は比べるものがない。これらは皆天下の重い嘆きだったので、物の道理を分かる者も分からぬ者も一様に、世の中はどうなるのだろうと密かにささやき合い、洛中も延暦寺も南朝も、うち続いた悲しみに、女院の御所は嘆きが深く、幕府は暗く沈んで、叡山の雲の色は悲しげで、今年はどういう歳だから高貴な方が亡くなり、墓所に葬られることになったのだろうと、僧俗、男女がみな一様に袖を絞ったのだった。

《尊氏に続いて、大きな二人の訃報です。新待賢門院は、『集成』の注によれば、名は廉子、「巻一、後醍醐天皇の朝政を乱す傾国の女性とされた人物」です(巻第一・三章末)。 
 同書は、この二人の死は、史実としてはいずれも尊氏の亡くなった延文三年の翌年のことと言います。たいして変わらない話ですが、ドラマ性を増そうという虚構なのでしょう。
 前章の話ですが、結局尊氏の死については、あれだけで終わりのようで、そのことの歴史的意味、業績の評価、家臣たちの思惑や動き、政権への影響といった社会的側面は何一つ語られず、単に一人の人の死ということで終わるようです。そういえば、新田義貞の死の時も、「みずからつまらぬ戦場に出かけて、軽輩の兵の矢に命を落とされたことは、運が尽きたのではあるが、情けないことであった」で終わりでした(巻第二十・九章1節)。》

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