先陣があまりに戦い疲れたので、新手を入れ替えて戦わせようとしたところに、大友左近将監と佐々木塩冶判官が千余騎で後ろに待機していたが、どう思ったか、一矢射て後、旗を巻いて将軍方に駆け加わり、逆に官軍に激しく射かけてきた。
 中務卿の軍勢は、最初の合戦で多くを討たれて、もう戦おうとしない。右衛門佐の兵は、二度の合戦に人馬が疲れて勢いがない。これこそ新手として一戦もしようかと当てにしていた大友、塩冶が急に寝返って親王に向かって弓を引き、右衛門佐に攻めかかって戦ったので、官軍はどうして堪えられようか。
 「敵が後ろを遮らぬうちに、正面の軍勢と合流しよう」というので、佐野原へ退く。仁木、細川、今川、荒川、高、上杉、武蔵、相模の兵達三万余騎で追いかける。これで中務卿の欠かせない家臣と頼りにお思いだった二条中将為冬がお討たれになったので、右衛門佐の兵達は次々に引き返して戦ったので、三百騎はあちらこちらで討ち死にした。これをも顧みず、浮き足だった官軍は我先にと逃げていくので、佐野原でも支えきれず、伊豆の国府でも支えきれずに、搦め手の寄せ手三百余騎は、東海道を西へ逃げていく。


《さて、官軍の中から足利方に寝返る者が出て、大変なことになりました。
 その一人、大友左近将監は、『集成』によれば「貞宗の息、貞載」ですが、その貞宗というのは、先の「筑紫合戦」の時に同盟の味方を欺いて利を得て、「この度の振る舞いは人のすることではないと天下の人に謗られ」た人でした(巻第十一・五章・2節)。父子揃って、なかなか油断のならない策士のようです。
 また佐々木塩冶判官も、後醍醐帝の隠岐脱出の折、帝の遣いとしてやって来た佐々木義綱をなぜか閉じ込めてしまって、帝が名和一族に守られて船上山に臨幸されると、義綱を伴って真っ先にその軍に加わったという、何とも不可解な行動をした人でした(巻第七・六章2節、巻末)。
 ここの作者も「どう思ったか」という一言ですませて、その経緯や思惑を語ってくれません。
 ともあれ、この寝返りによって形勢は一挙に逆転、七千余騎で向かった搦め手の兵は、わずか三百余騎になって逃げ出すことになってしました。
 途中、「親王」は、中務卿(中書王)尊良親王です。》

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