一方、足利将軍は八十万騎の軍勢を率いて、正月七日、近江国伊岐洲の神社に叡山の法師成願坊が三百余騎で立て籠もっていた城を一日一夜で攻め落として、八日に八幡の麓に陣を取る。
 細川卿律師定禅が四国と中国の軍勢を率いて正月七日に播磨の大蔵谷に着いたところ、赤松信濃守範資が自分の国に帰って旗揚げしようと京都から逃げて帰って来たところに行き合って、互いにこの上なく喜んだ。何はともあれ、元弘の吉例だというので信濃守を先陣として、その合計二万三千余騎が正月八日の昼に芥川の宿に陣を取る。
 丹波の久下弥三郎時重、波波伯部次郎左衛門為光、酒井六郎定信が但馬、丹後の軍勢と合流して六千余騎、二条大納言殿の西山の峰の堂に陣を取っていらっしゃったのを追い落として、正月八日の夜半から大江山の峠に篝火を焚いた。
 京の中では、時に応じて劣勢になったところへ向かわせようと、新田の一族三十余人が諸国の軍勢五千余騎を残しておられたので、大江山の敵を追い払えと江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎を丹波路へ向けられる。この軍勢は正月八日の明け方に桂川を渡って朝霞に紛れて大江山へ押し寄せ、一矢交えるとすぐに太刀を抜き一斉に攻め上ったので、先陣にいて戦った久下弥三郎の弟五郎長重が深手を負って討たれた。これを見て後陣の軍勢は一戦も交えずに馬に鞭打って逃げたので、相手はそれほど追わなかったけれども、三十㎞、六十㎞の遠方まで逃げない兵はいなかったのだった。


《ここは、いろいろな動きが雑然と語られている感じです。
 まず尊氏が東から来て「八幡の麓に陣を取る」とあり、続けて、西南から細川・赤松連合軍が芥川の宿(山崎・八幡五㎞ほど南)に陣を張りました。
 さらに、丹波・丹後勢が西から峰の堂で戦いを起こし、一旦はみごとに攻略しました。
 それに対して、新田軍はまず大江山を取り返すべく、早朝の奇襲を掛け、一蹴してしまいました。
丹波丹後勢が「正月八日の夜半から大江山の峠に篝火を焚」き、新田勢が「正月八日の明け方に…大江山へ押し寄せ」という時間の関係が変なようですが、「夜半」というのは、八日になって間もない頃を言うようです。私たちの一日は朝から始まるのですが、この時代の人の一日は夜から始まると、どこかで読んだ気がします。確かにその方が時間に忠実です。
 最後の「相手はそれほど…」は、このことが後に特に影響を与えてもいないようで、これをことさらに書いた意味は何なのか、ちょっと分かりかねます。
 この章は次節が本題で、ここまではその前座といったところでしょうか。
 ところでその前に、ここでいきなり尊氏が八幡(石清水八幡のことのようです・『集成』)に陣を取ったと言いますが、では、琵琶湖の南端の名和長年の防衛隊はどうなったのかと、気になります。伊岐洲神社は「草津市芦浦にある印岐志呂神社」(『集成』)だそうですから、そこからなら勢多を通らないはずはなさそうですし、京都も通り抜けそうです。仮に南に迂回したとしても、八幡に行くには途中に宇治があります。そこの楠は何をしていたのか、と知りたくなりますが、前節であれほど具体的に語っていた布陣についてのフォローがないのが残念です。作者は早くタイトルにした「大渡・山崎の合戦の事」を語ろうと、先を急いでいるのでしょうか。》