将軍がいよいよ明日西国へ発たれると伝えられたその夜、左兵衛督入道慧源は、石塔右馬助頼房だけを連れて、どこへとも知れずお逃げになったのだった。これを聞いて世の中の心配する人は、「さあ、天下の乱が起こるぞ。高家一族は今に滅びるだろう」とささやいた。ことの事情の分からないそちら方の人々の女性達は、「何とあきれたこと、この世の中はどうなるのだろう。お供に着いて行った人もいない。御馬も皆厩に繋がれている。徒歩で裸足では、どこへも一歩もお逃げになれないだろう。これは全部武蔵守の謀で、今夜こっそり殺してしまうのだろう」と、声も惜しまず泣き悲しむ。
仁木、細川の人々も、執事の館に急ぎ集まって、
「錦小路殿がお逃げになりましたことは、後の禍が遠くないと思われますので、しばらく都にお留まりになって、居場所をよくお調べになるのがよいでしょう」と申されたところ、師直は、
「何と大袈裟なことだ。たとえ吉野、十津川の奥、鬼界が島や高麗の方へお逃げになったとしても、私が生きている間は、だれがその人の味方になろうか。首を獄門の木に曝し、屍を卑しい者の鏃に懸けられることは、三日以内であろう。その上、将軍のご出発のことは、すでに諸国へ日を示して触れて遣ってある。約束が違えば、面倒なことが多くなる。少しも留まるべきではない」と言って、十月十三日の早朝に、師直はとうとう都を発って、将軍を先にお立てして、道中の軍勢を引きつれて、十一月十九日に備前の福岡にお着きになる。ここで中国四国の軍勢を待ったけれども、海上は波風が荒れて船も通わず、山陰道は雪が降り積もって馬も歩けなかったので、馳せ参じる兵は多くない。それでは年が明けてから九州へ向かおうということで将軍は備前の福岡でむなしく日を送られたのだった。


《零落蟄居の直義でしたが、なおまだ身の危険を感じるようなことがあったということでしょうか。あるいは、なお復帰を期して反転攻勢の機会を求めたということでしょうか。将軍出立の前夜とはいいタイミングを狙ったものです。
 師直の言葉は、自信満々ですが、こういう判断はえてして慢心となって、逆の結果をもたらすもののように思います。これは凋落の兆しなのではないか、備前福岡での意に添わない足止めは、その兆しの顕現ではないか、…。
ところで、直義逃亡についての世の人々の噂話はいつの話なのでしょうか。このまま読むと、その晩の話のように読めますが、そうすると、少なくとも身内には事が事前に漏れていたことになります。まさかそんなことはないでしょう。しかし「今夜」という言葉がある以上、そういうことになりそうですが、…。少なくとも、「世の心配する人」の言葉と、「そちら方の人々の女性達」の言葉の時系列は順序が逆でしょう。》

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