その頃、七月に征西将軍の宮を大将として、新田の一族と菊池の一門が太宰府へ攻め寄せると噂されたので、少弐は陣を構えて敵を待とうとして、大将太宰築後守頼尚、息子の築後新少弐忠資、甥の太宰築後守頼泰、朝井但馬守将監胤信、築後新左衛門頼信、窪能登太郎泰助、肥後刑部大輔泰親、太宰出雲守頼光、山井三郎惟則、饗庭左衛門蔵人重髙、同じく左衛門大夫行盛、相馬小太郎、木綿左近将監、西河兵庫助、草壁六郎、牛糞刑部大輔、松浦党では佐志将監、田平左衛門蔵人、千葉右京大夫、草野築後守、息子の肥後守、高木肥前守、綾部修理亮、藤木三郎、幡田次郎、高田筑前前司、三原、秋月の一族、島津上総入道、渋谷播磨守、本間十郎、土屋三郎、松田弾正少弼、川尻肥後入道、詫間三郎、鹿子木三郎、これらを主だった侍として、全部でその数六万余騎、杜の渡しを前にして味坂庄に陣を取る。
 宮方では、先帝第六の皇子征西将軍の宮、洞院権大納言、竹林院三位中将、春日中納言、花山院四位少将、土御門少将。坊城三位、葉室左衛門督、日野左少弁、高辻三位、九条大外記、息子の主水頭、新田の一族では岩松相模守、瀬良田大膳大夫、田中弾正大弼、桃井左京亮、江田丹後守、山名因幡守、堀口三郎、里見十郎、侍大将には菊池肥後守武光、息子の肥後次郎、甥の肥前二郎武信、同じく孫三郎武明、赤星掃部助武貫、城越前守、賀屋兵部大輔、見参岡三河守、庄美作守、国分二郎、故伯耆守長年の次男名和伯耆守長秋、三男修理亮、宇都宮刑部丞、千葉刑部大輔、白石三河入道、鹿島刑部大輔、大村弾正少弼、太宰権少弐、宇都宮壱岐守、大野式部大輔、派讃岐守、溝口丹後守、牛糞越前権守、波多野三郎、河野辺次郎、稲佐治部大輔、谷山右馬助、渋谷三河守、同じく修理亮、島津上総四郎、斉所兵庫助、高山民部大輔、伊藤摂津守、絹脇播磨守、土持十郎、合田筑前守、これらを主だった兵としてその数全部で八千余騎、髙良山、柳坂、水縄山の三ヶ所に陣を取ったのだった。
 同じく七月の十九日に菊池はまず自分の手勢五千余騎で筑後川を渡って少弐の陣へ押し寄せた。少弐は、何を考えたのか、戦わないで三㎞ほど引き下がって大原に陣を敷いた。菊池が続けて攻めようとしたが、間に深い沼があって細い道が一本あったのを三ヶ所掘り切って細い橋を渡していたので、渡りようがなかった。両軍は間が近くて旗の紋がはっきりと見えるほどだったので、菊池はわざと少弐を辱めようと、金銀で日月を打った旗の棹の先端に一枚の起請文を取り付けた。これは、去年太宰少弐が古浦の城でほとんど一色宮内大輔に討たれそうになったのを、菊池肥後守が大軍で後ろから攻めて少弐を助けたので少弐が喜びに堪えずに、「これから後、子孫七代に至るまで、菊池の人々に向かって弓を引き矢を放つことは決してないだろう」と、熊野権現の護符の裏に血を絞って書いた起請文であるので、今は情けなく心変わりしたことの見苦しさを、一方では天に訴え、一方では人に知らせるためなのだった


《「征西将軍の宮」は「後醍醐天皇の皇子、懐良親王」(『集成』)だそうです。新田義貞の弟、義助が越前で黒丸城を落とした頃(巻第二十一・六章、一三三九)にすでにその呼び名がありますから、すでに二十年、その任に就いておられることになります。今、南朝方はその人を担いで、九州に反抗の烽火を上げようとしています。
 幕府方は太宰少弐・藤原頼尚を頭として六万余騎、対する寄せ手の宮方は八千余騎、この物語の少数有利のセオリーでいけば、いけるかも知れない対陣です。
 「杜」は「ゆずり」と読みます。「筑後川の渡し。久留米市宮ノ津町宮瀬の地か」、「味坂庄」は「福岡県小郡市」(『集成』)です。
 さて戦いが始まりましたが、まずはちょっとした心理戦です。》

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