その頃、小川中務丞と土岐東池田とが手を結んで、仁木に味方して尾張の小川の庄に城を構えて立て籠もったのを、土岐宮内少輔が三千余騎で押し寄せて、城を七重八重に取り巻いて二十日余り攻めたところ、急いで拵えた城なので、兵糧がたちまちに尽きて、小川も東池田もともに降服して出て来たのを、土岐は日頃所領を争うことがあった恨みによって、小川中務は直ぐに首を刎ねて京都へ送り、東池田は一族であることで尾張の番豆崎の城へ送った。
 𠮷良治部大輔も仁木の相談を受けて、三河国の守護代西郷兵庫助と一緒になって矢作の東に陣を張って東海道を塞ぎ、畠山入道の下向を妨げていたが、大島左衛門佐義高が当国の守護を頂いて星野、行明らと手を結んで、国に入ってきた途中の戦で敗れて、西郷は西へ逃げて行ったので、𠮷良治部大輔は味方になって都へ出たのだった。


《「その頃(原文・さる程に)」と言われても、どういう頃だったのか、にわかには思い出せません。前々章(三章)の終わりを読み返してみると、仁木義長を都から追い払った畠山が、京都での世評の悪さに逃げ出して関東へ帰ろうとした途中、仁木の所領だった三河で足止めされ、また背後で仁木に同心した小川中務が兵を起こしたために、進退が窮まった、それを聞いた山名伊豆守が、また山陰で兵を起こして攻め上り赤松兄弟を破った、というところでした。
そこで、その続きの話です。
 三河で畠山の帰るのを妨げたのは、小川だけではなく、土岐東池田も一緒だったようですが、日頃から東池田に遺恨のあった同族の土岐宮内少輔が二人を討ってしまいました。
 また𠮷良治部大輔も、仁木に同心して三河の守護代西郷と組んで、矢作の東でやはり畠山の帰途を塞ぎましたが、これも、三河の守護となった大島某(畠山方のようです)が星野、行明と手を組んだ軍勢に討たれてしまいました。𠮷良は「味方になって」とは降参して大島の味方になったということでしょうか。「都へ出た」のなら「西へ逃げ」た西郷と同じ方向になりますが、どこへ行ったのでしょうか。まあ、話の筋には関係ないようです。
 さて、ということは、畠山は無事に関東に向かうことができたということになりそうですが、そのことには触れてくれません。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ