これをお聞きして、武者所にいた者たちはささやき合って、
「近年源氏の一族の中でお味方になって来る人々を見るに、誰もが嘘を言って帝を騙さない者がいない。まず錦小路慧源禅門は古くから譜代の師直、師泰らから危害を避けるためにお味方になってやって来たけれども、こちらの力を借りて会稽の恥を濯いだ後は一日も全く帝の恩を大切にしないで、その罪が身に報いとなって、結局毒殺されてしまった。その後また宰相中将義詮朝臣はお味方になると言って君臣合体ということがあったけれども、早々に天下の執政を帝にお任せした堅い約束がすぐに破れて、義詮が近江を指して逃げたのは、その偽りの結果ではなかったか。また右兵衛佐直冬と石塔刑部卿頼房、山名伊豆守時氏らがお味方になったのも、全て本心とも思えない。思うにただ勅命を借りて自分の目的を達したら帝を御位にお即けするとしても、天下を自分の物にしようと心中で考えている者だ。
 今また仁木右京大夫義長は、大軍に囲まれたことに堪えられなくて、お味方になると言っているのを諸卿がお許しになったのは、理解できない。あの人の普段の振る舞いはすべて悪でなかったことがない。少しでも自分の心に添わない時は、罪のない人を殺して間違いだとも思わない。気持ちに合う時には、忠心のない者に褒賞を与え、すぐまた取り消す。何と言っても多年の恩顧を忘れて義詮朝臣に背くほどの者だから、帝のために深く忠義を感じるはずがない。七ヶ国の所領をなお不十分だと思ったほどの心根だから、こちらからの五ヶ国、三ヶ国の恩賞を不足なしと思うはずがない。もしあの者が希望するほどの恩賞を行われれば、日本六十六ヶ国の一つも残らないだろう。多年功を積んだ官軍たちは、どこを所領とすればよいのか。じっとこれらのことを考えると、忠臣でも知恵ある臣下でもなく、仏神に棄てられ、人望に背いて自滅するであろう悪人を味方になされたのだから、どうして帝のご運の助けになろうか。まったく虎を養ってみずから問題を招き寄せるようなものであるのに」と言ったところ、またそこにいた仁木を贔屓にする者かと思われる者が、
「この人が悪い人であるのはそのとおりだが、また並みの人とも思えない。鎌倉では鶴岡の八幡宮で稚児を斬り殺して神殿に血を注ぎ、八幡では駒方の神人を殺して多くの訴訟を起こされた。世の普通の人でこれ程の悪業をしたら、しばらくも安穏にはいられないでしょう。仙輿国王が五百人を殺し、斑足太子が千人の王を殺したのも、皆菩薩が姿を変えた者だったと聞いている。これもただあの人を贔屓に思って言うのではない。人が語ったことが耳に残っていますので、お話しするのです。
 近年この人は伊勢国を所領にして国にいた時に、前々から公家も武家も決して手を付けなかった神三郡に入り込んで、大神宮の御領を奪い取った。これによって宮司、神官らが京都に上って公家に申し上げ、幕府に訴えた。我が国が始まって以来、このような不届きなことがあるかと厳しい綸旨や通知が出されたけれども、義長は一向に認めなかった。その上、自分を訴えたことが憎いといって、五十鈴川をせき止めて魚を捕り、神路山に入って鷹狩りをした。悪行は日々積み重なった。やむを得ない、それでは神罰にお願いして死ぬのを待とうと、五百余人の神官らが榊の枝に四手をかけ、さまざまな幣を捧げて、ひたすら義長を七日間の内に蹴殺して下さいと異口同音に呪詛した。七日目に、十歳ほどの童が一人、急に憑き物がして、『私に大神宮が乗り移られた』と言って託宣して、『私は真の悟りと真理の世界を出て衆生救済のためにこの世に現れて以来、菩薩の姿となって秋の月のように世に照らさないところなく、春の花のように縁のあるところ香らせない袖はなかった。だから、衆生を導くことにおいて罪のある者も厭わず、愚かな者も見捨てなかった。そもそも義長の悪行をお前たちが天に訴えて呪詛する事は、理解できない。彼の前世においては義長法師と言っていた時、五部の大蔵経を書いてこの国に納めた。その善根によって、現世でこの国を納めることができた。このような善行がなければ、あの者はどうして一日でも安穏を得ただろうか。ああ、もったいない善根だ。
 もし無上菩提の心に従ってこの経を書いたのであったならば、すみやかに現世を離れて仏の世界に入ったであろうものを。ただ名声と利益のために行った善根だったので、今生においては武門に生まれて諸国を支配し、一族の多くが従ったといっても、悪行が心に沁みて、乱を好み人を苦しめた。哀れなことだ。過去の善根がこの世に報い、この世の悪行が未来に報いるとは』と残念がって泣いていたが、しばらくして寝入った様子で、憑き物が落ちてすぐに目を覚ました。
こうしたことによって考える時に、義長もそれなりの人であると思われる」と言ったところ、初め批判していた者たちは、
「それはともかく、悪行においては天下第一の悪人だ」と、一晩中語って、夜が明けると早く帰っていった。


《武者所での最初の男の話は、実に整然とよくまとまっているように思います。確かにこの人が言っているように、これまでも何人もがこうして、幕府を寝返った形でやって来ました。実に、何でもありの乱世だったということなのでしょう。
 彼が挙げた人以外にも、赤松則祐、足利尾張守高経などもいたことが思い出されます。その中で、山名だけはまだしばらく南朝で働くことになりますが、その他は全て、また幕府に帰って行ったように思います。
 「贔屓にする者かと思われる者」の話は、あれだけ悪いことをしておきながら、なお滅んでいないのだから、それなりの人だろうということで、不思議な議論ですが、こういう考え方もないわけではありません。確かに一定の大事を為した人は、何か人に優れたところがあるからそういうことのできる立場に上るわけで、問題はその立場に就いたときに何をするかであるのでしょう。作者としては、広角に人を見ているところを示したというところでしょうか。
 しかし、稚児が伝える託宣の「過去の善根がこの世に報い、この世の悪行が未来に報いる」という言葉が、全てと言っていいでしょう。終わりの「『それはともかく、悪行においては天下第一の悪人だ』と、一晩中語って」とあるのが、この座の結論だったようです。
 ただ、そういう仁木であっても、南朝方は南朝方で、それを簡単に拒否するほどの余裕はなかったのでしょう。敵の敵は味方、都へ帰るのには、何と言ってもそれだけの勢力が必要なのです。理想論、道義論ばかりは言っていられません。》

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