このような頃に山名伊豆守時氏と嫡男右衛門佐師義、次男中務大輔が、出雲、伯耆、因幡三ヶ国の軍勢三千余騎を率いて美作へ向かって進む。
 当国の守護赤松筑前入道世貞が播州にいてまだ戦わないうちに、広戸掃部助の名木杣の二つの城、飯田の一族が籠もっていた笹向の城、菅家の一族の大見丈の城、有元民部大輔入道の菩提寺の城、小原孫次郎入道の小原の城、大野が籠もっていた大野の城の六ヶ所の城は一矢も射ずに降参した。林野、妙見の二つの城は二十日あまり持ちこたえたが、山名にあれこれと言いくるめられて、ついにこれも敵になる。
 今は倉懸の城一つが残って、作用美濃守貞久、有元和泉守佐久がわずか三百余騎で立て籠もっていたのを、山名伊豆守時氏、息子中務少輔が三千余騎で押し寄せて、城の四方の山々峰々の二十三ヶ所に陣を取って、鹿垣を二重三重に結び回し逆木をたくさん作っておいて、矢の届くところまで攻め寄せた。
 播磨と美作との境には、竹山、千草、吉野、石塔が峰の四ヶ所に城を構えて、赤松律師則祐が百騎ずつの軍勢を入れていた。山名の執事小林民部丞繁長は二千余騎で星祭りの嶽へ上って、城を目の下に見下ろして隙があったら攻めかかろうと、馬の腹帯を引き締めて構えている。赤松筑前入道世貞、弟律師則祐、その弟弾正少弼氏範、大夫判官光範、宮内少輔師範、掃部助直頼、筑前五郎顕範、佐用、上月、真島、杉原の一族が集まって二千余騎、高倉山の麓に陣を取って、敵が倉懸の城を攻めたならば、疲れに乗じて後ろを攻めようと考えていると伝えられたので、山名右衛門佐師義は優れた兵八百余騎を連れて敵の近づくところを迎え討とうと待ち構えた。

 
《山名伊豆守は、畠山が天王寺出兵によって仁木を追い払ったことに満足して帰洛したと聞いて、またぞろ上洛を企てていました(巻第三十五・三章)が、その続きの話です。
 そして冒頭の「このような頃に(原文・かかるところに)」の内容はといえば、現在、幕府を牛耳っていたらしい仁木は南朝に加わり、その仁木追討を企てた畠山は(多分)鎌倉に帰って(ということは、京都に突出したリーダーが不在だということになりそうです)、一方南朝は「和田と楠がまた討って出た」(同)ということになっていて、そこに天災が相次いだ、という事態を指していることになります。
 山名は、鳥取県から山を越えて岡山、兵庫の県境に迫ります。迎え討つ美作勢(実際には播磨の赤松勢)のここに挙げられた城を、『集成』の注を頼りに地図で見ると、初めの「六ヶ所の城」はおおむね美作市から北への一帯、次の林野、妙見は美作市街地あたり、倉懸はその少し東の作東町、赤松則祐が百騎ずつを置いていたという四つの城は、作東町の北に千草と吉野、南に竹山と石塔が峰が遙か遠く赤穂市の近くにあります。
 それに対して山名勢の執事小林民部丞が率いる本隊は、星祭りの嶽に上って陣を構えました。位置は吉野と同じ「英田(あいだ)郡大原町」(作東町の北十㎞ほど)とされていますから、「城を目の下に見下ろして」の城は、吉野のことでしょう。その少し西にあたるようです。御大・伊豆守は遊撃隊の役目です。
 さて、対する赤松の本隊がやって来て、「高倉山の麓」に陣を置いたのですが、これはなんと、津山市高倉といいますから、因美線高野駅のすぐ西辺り、星祭りの嶽からは西へ直線でも二十五㎞も離れています。ずいぶん遠くに陣を置いたもので、山名が星祭りの嶽から攻めようとしている南へ十㎞ほどの倉懸をへはあっという間でしょうが、赤松の本隊が高倉から倉懸に駆けつけて山名の背後に回り込むのには、その三倍くらいの時間がかかりそうです。しかもその途中には「山名にあれこれと言いくるめられて、ついにこれも敵にな」ったという林野と妙見の城があります。ちょっとよく分からない布陣ですが、さて、…。》

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