康安元年(正平十六年 一三六一)十二月から、翌二年末頃まで。

 相模守は石塔刑部卿に帝への上奏を依頼して、
「私は至らぬ者ですが、お味方に参上しましたことによって、四国、東国、山陰、東山道で、多くの者が正義の兵を挙げるようです。京都は、もともと頼りになる兵は一人もいません上に、細川右馬頭頼之と赤松律師則祐は、現在山名伊豆守と陣を構えて互いに戦っている最中ですから、皆自分の国を離れられないでしょう。土岐、佐々木らはまた仁木右京大夫義長と戦って、両陣が対決していて上洛致すことはないでしょう。防ぐべき兵もなく、助けの軍勢もないと思われる時期ですので、急いで和田、楠以下の官軍に協力するように仰せ下さい。私が先陣をお勤めして京都を一日の内に攻め落として、臨幸を正月以前にして差し上げます」と申し上げた。
 主上はなるほどと思われたので、早速楠を呼んで、
「清氏の申すところは、どうすればよいか」と仰った。正儀はしばらく考えて、
「故尊氏卿が正月十六日の合戦に敗れて九州に逃げまして以来、朝敵が都を逃げ出すことがすでに五回になります。
 しかしながら天下の兵でなお帝にお仕えする者は多くいませんので、洛中に足を留めることができません。しかも一時的に京都を落とすことは、清氏の力を借りるまでもありません。私一人の軍勢でも容易ですけれども、また敵に引き返されて攻められた時は、どの国も官軍の助けとならないでしょう。もし退くこと恥じて洛中で戦いましたならば、四国、西国の御敵が兵船を浮かべて背後から襲い、美濃、尾張、越前、加賀の朝敵達が宇治、勢多から押し寄せて決戦となれば、また天下を朝敵に奪われることは、簡単なことでしょう。ただ、愚かで非才の身として、朝廷を軽んじるつもりはありませんので、どのようにでも帝のお言葉に従います」と申し上げる。
 主上を初めとして皇族、后妃、役人、警備の者に至るまで、住みなれた都の恋しさに、後の苦労を顧みず、
「一夜の間だけでも宮中で寝て、後はその夜の夢を思い出そう」と仰ったので、諸卿の協議は一致して、翌年からは三年「北塞がり」になるから、節分以前に洛中の敵を攻め落として、臨幸していただくように決まって、兵をお集めになった。


《清氏としては、幕府に一矢報いたい気持ちもあり、また南朝に忠誠と自分の武威を示したいところでもあるでしょうから、やや前のめりの提案になります。
 それに対して楠は、冷静です。清氏が、全国で挙兵する者がいる、というのはそのとおりでしょうが、楠からすれば、それは散発的で、「天下の兵でなお帝にお仕えする者は多くいません」と言い切ります。つまり天下を取ろうとして都に来る者がいるとしても、それは帝を盛り立てようというのではなく、自分のためであって、天皇の幕府のどちらかに付くかとなれば、幕府を取るだろう、ということでしょうか。したがって、「どの国も官軍の助けとならない」と考えています。しかし、その考えはそれとして、帝の命には従います、というのは父正成が湊川に向かう時の態度と同じです(巻第十六・十章)。立派な武将になりました。
 それに対して帝の、その機会があるのなら、「一夜の間だけでも宮中で寝て、後はその夜の夢を思い出そう」という思いは痛切です。こう言われては、忠臣として後には引けません。
 ただし、「住みなれた都の恋しさ」と言いますが、帝(後村上帝)は一三二八年生まれ、父後醍醐帝の吉野潜行が一三三六年で、つまり八歳の時から都を離れて、今一三六一年、すでに二十五年間吉野住まいですから、「恋しさ」はともかく、帝については「住み慣れた」はちょっと無理があるように思われます。周囲の者たちが、そういう気持ちから帝に進言したのでしょう。》

 明日は、都合で休載します。

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ