元弘二年三月五日、左近将監時益と越後守仲時が南北の六波羅に任ぜられて、関東から上洛する。この三、四年は、常葉駿河守範貞一人で両六波羅の業務を執っていたが、強く辞退申し上げたためという話である。
 楠兵衛正成は、前年赤坂の城で自害して焼け死んだ振りをして逃げていたのを本当だと考えて、幕府ではその後に湯浅孫六入道定仏を地頭に据えていたので、もう河内には変わったことはないだろうと安心していたところに、同じ四月三日、楠が五百余騎を率いて突然湯浅の城に押し寄せて、息も継がせず攻め立てる。
城中に兵糧が乏しかったのであろうか、湯浅の所領紀伊国の阿瀬川から人夫五、六百人に兵糧を持たせて夜中に城中に入ろうとするということを楠がひそかに聞いて、兵を道中の難所に行かせてことごとくこれを奪い取って、その俵に武具を入れて馬に背負わせ人夫に持たせて、兵二、三百人を軽い武装をさせて城中に入ろうとする。楠の手勢がこれを追い散らそうとする振りをして追いかけたり引いたりして、味方同士で戦いをした。湯浅入道はこれを見て、自分の兵糧を城中に入れる兵達が楠勢と戦っているのだと思って、城中から討って出て、とんでもない敵の兵たちを城中に引き入れた。楠の手勢は思いのままに城中に入りおおせて、俵の中から武具を取りだししっかり身を固めて、すぐさま鬨の声を上げたのだった。城の外の兵達は同時に城門を破り、兵を乗り越えて攻め込んだので、湯浅入道は内外の敵に取り囲まれて、戦いようがなかったので、たちまちに首を差しだし降伏したのだった。


《元弘二年(一三三二)三月五日は、後醍醐帝が隠岐へ向けて京を出立する二日前ですから、その差配は到着したばかりのこの人たちが行ったようなことになりますが、史実では、二人の上洛は二年も前のことのようで、『集成』は「この後の正成らの行動開始に対処するものとして年次を改めたものか」と言います。そうすると二人の着任の意味が全く異なるように思われますが、話の本題はその正成なので、そういうことだったのだと承知して、先へ読み進めます。
 さて、後醍醐帝は二十六日かかって隠岐に着いたとありました(巻第四巻末)から四月二日頃の到着となります。前節の三位局の北野宮参籠がいつ頃のことか分かりませんが、このおよそ一ヶ月の、おそらくは後半ということでしょうか。それから間もない、ちょうど帝が隠岐に着かれた頃、局の夢の中で老翁が伝えた歌を受けるようにして、正成が突如、今は湯浅がいる、もとの自分の城・赤坂の城を攻めて、例によって期待に違わぬ見事な計略で簡単に落としてしまいました。》

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