楠はその湯浅の手勢を合わせて七百余騎で和泉・河内の両国を随わせ、大軍になったので、五月十七日にまず住吉・天王寺へ討って出て、渡部の橋から南に陣を張る。そうしているうちに和泉・河内の急使が次々に楠がいよいよ京都へ攻め上るということを伝えたので、洛中の騒ぎは一通りでない。武士が東西に走り、あらゆる人々が慌てることこの上ない。
 そういうことだったので、両六波羅には畿内や近国の軍勢が雲霞のごとく馳せ集まって、楠が今にも攻め上るかと待っていたけれども、いっこうにその様子がなかったので、
「噂に似ず、楠は小勢であるようだ。こちらから押し寄せて蹴散らせ」と言って、隅田と高橋を両六波羅の指揮者として洛中四十八カ所の詰め所の者と近国から来ている者、それに畿内と近国の軍勢を合わせて、天王寺へと差し向けられた。その勢は全部で五千余騎、同月二十日に京都を発って、尼崎・神崎・柱松のあたりに陣を張って、遠くから見える篝火を焚き、その夜が早く開けよと待っていた。
 楠はこれを聞いて、二千余騎を三手に分けて、主力を住吉と天王寺に隠して、わずか三百騎ほどを渡部の橋の南に待機させ、大きな篝火を二、三カ所に焚かせて向き合った。これは、わざと敵に橋を渡らせて、水の深みに追い落とし、勝負を一気に決めようとしたのだった。


《楠は赤坂城から天王寺へ、直線でおよそ三十㎞ほど進出します。渡部の橋は「現在の天満・天神両橋の間に架かっていた橋」(『集成』)だそうですから、川は大川、大阪城のすぐ西に当たるあたりに陣を敷いたことになります。もっとも、『集成』の地図では、「旧大和川」に架かっていたように書かれています。
一方、六波羅軍が陣を置いた尼崎、神崎は淀川の河口近く、また柱松は「高槻市柱本」と言います(『集成』)から、ずいぶん離れているように思われますが、五千騎を配置すると、そのくらいにはなるのでしょうか。
また、六波羅軍の三つの陣はいずれも『集成』の地図で見ると淀川の西岸になるようですから、両軍は淀川を挟んで対峙したように思われますが、楠が敵の正面に据えた三百騎は「渡部の橋の南」とありますから、そうではなくて、川はやはり大川(あるいは旧大和川)なのでしょうか。
 ところで、冒頭、湯浅軍を破った楠が、「湯浅の手勢を合わせて七百余騎で」進軍したとあって、そんなに簡単に敵だった兵を取り込んで大丈夫か、寝返りなどは心配しないのかと不思議な気がしますが、多分、雑兵たちにとって戦は功名を挙げるための命がけのスポーツなのであって、それぞれ相手に対してライバル以上の気持ちは無く、一つの戦いに決着が付けば、それはそれで終わり、次の戦いはまた別の仲間とチームを組むのに何の問題もなかった、ということかと思われます。
 途中、楠が天王寺からそのまますぐに都に攻め上って来ないのを見て、六波羅が「楠勢は小勢であるようだ」と考えたと言いますが、それは他にも理由が考えられそうで、簡単にそう決めつけたというのは、よく分からないところです。相手が小勢であるかどうかよりも、自分たちが大軍になったので、気が大きくなったということでしょうか。》

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