「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

カテゴリ: 巻第二十

 中でも結城上野入道が乗った船は、強風に吹かれて、渺々たる海上に揺られ漂うこと七日七夜である。いよいよ大海に沈むか、地獄の番人の国に落ちるかと思われたが、風が少し静まって、これも伊勢の安野津へ吹き寄せられた。ここで十日あまりが経った後、なお奥州へ下ろうと、海を渡るよい風を待っていたところに、急に思い病を得て起きることもまったくできず、この世の定めも終わるかと思われたので、立派な僧が枕元に寄って、
「これまではあれでも何とかと思っておりましたが、ご病気が日を追って重くおなりですので、今はご臨終の日が遠くないと思われます。どうか浄土への往生の望みを怠ることなく、称名を唱えながら三尊の来迎をお待ち下さい。
 それにしても、この世にどういう思い残されることがおありですか。お心に懸かる事がありましたら、言い残して下さい。ご子息の方へもお伝えしましょう」と言ったところ、この入道はもう目を閉じようとしてが、がばと跳ね起きてからからと笑い、震える声で、
「私はすでに齢七十に及んで栄華は身に余るものがあるので、今生においては一事も思い残すことはありません。ただ今回京へ上って朝敵を滅ぼすことができないで、むなしくあの世への旅に出かけることは、永遠の妄念となるだろうと思われます。そこで愚息の大蔵権の少輔にも私の後世を弔おうと思うならば、仏に供え物をし僧に布施を与えるような供養をしてはならない、ただ朝敵の首を取って私の墓の前に懸け並べて私に見せてくれと言い置いたということを伝えていただきたい」と、これを最後の言葉として、刀を抜いて逆手に持って、歯を食いしばって死んだのだった。罪深い人が多いと言っても、終焉にこれほどの悪相を示したことは、古今に聞いたことがないほどだった。
 実際にこの道忠の普段の振る舞いを聞くと、「十悪五逆」の悪行があり、罪障がこの上ない悪人である。鹿を狩り鷹を使うことはまだ世俗に行うことなので、言うに足らない。罪のない者を打ち縛り、僧尼を殺すこと数知れない。常に死人の首を見ないと気が塞ぐと言って、僧俗、男女を問わず毎日二、三人の首を切って、ことさらに目の前に懸けさせた。だからあの者がしばらくでもいた辺りは死者の骨がいっぱいで屠殺場のようであり、死骸が積み重なって墓地のようである。この入道が伊勢で死んだことは、遠くのことなので故郷の妻子はまだ知ることがなかったが、その頃縁のある律僧が武蔵国から下総へ下ることがあった。日が暮れて道は遠く、泊まるべき宿を捜しているところに山伏が一人現れて、
「さあついていらっしゃい。この辺りに旅僧の世話をしてくれるところがあります。そこへお連れ申そう」と言ったので、行脚の僧は喜んで山伏の案内で遠く行ってみると、鉄の築地を築いて金銀の楼門が立っている。その額を見ると、「大放火寺」と書いてある。門から入って中を見ると、立派でこの上なく美しい仏殿がある。その額に「理非断」と書いてある。
 僧をその宿に置いて山伏は中に入った。しばらくしてその山伏が中から法華経を入れた螺鈿の箱を持ってきて、
「いまからここで不思議な事があるはずです。どんなに恐ろしく思われましても、興奮しないで身も口も心も鎮めてこのお経を読んでいなさい」と言って、自分は第六巻の紐を解いて寿量品を読み、僧には第八巻を与えて普門品を読ませた。僧はどういうことかと不思議に思いながら山伏の言うのに従って口では経を誦し心には妄想を払い静かに坐っていた。
 夜半を過ぎる頃に、月が急に曇って雨が激しく稲光がして、牛頭や馬頭といった地獄の獄卒たちが数え切れないほど広い庭に集まった。天地はたちまち変わって鉄の城が高くそびえ鉄の網が四方に張られた。激しく火が燃えて炎が高く上がり、毒蛇が舌を伸ばして炎を吐き、鉄の犬が牙をむきだして吼えかかる。僧はこれを見て、ああ恐ろしい、これは無間地獄であろう恐ろしく思って見ているところに火も燃えさかる車に罪人を乗せて、牛頭、馬頭の鬼たちがながえを引いて空からやってきた。待っていた気負い立つ鬼たちは、鉄の大岩のような俎を庭に置いて、その上にこの罪人を捕まえて仰向けに寝かせ、その上にまた鉄の俎を重ねて、たくさんの鬼どもが膝を曲げ肘を伸ばして、かけ声を出し、えいやえいやと押すと、俎の端から血が油を絞り出すように流れ出る。これを受けて大きな鉄の桶に入れて集めると、まもなくいっぱいになって、夕日を揚子江に浸したようである。
 その後二つの俎を取り除いて神のように平べったくなった罪人を鉄の串に刺して炎の上にこれを立てて、ひっくり返しながらあぶる様子は、まったく料理人が肉を調理するようである。しっかりあぶって乾かした後、また俎の上に広げて肉切り包丁に鉄の箸を添えて持って、ずたずたに切り刻んで、銅の唐箕の中に投げ込んだのを牛頭や馬頭の鬼達が唐箕を持って「活、活」と唱えて振るうと、罪人はすぐによみがえって、また元の形になる。その時に獄卒が鉄の杖を持って罪人に向かい、怒りの言葉を出して罪人を責めて、
「地獄が地獄なのではない。お前の罪がお前を責めるのだ」と責める。罪人はこの苦しみに責められて、泣こうとするけれども涙は落ちない。激しい火が目を焼くので叫ぼうとするが、声が出ない。鉄の玉が喉を塞いでいるので、もし一瞬の苦しみを語ったとしても、聞く人は地に倒れてしまうだろう。客の座にいる僧はこれを見て、正気も失い骨の髄も砕けてしまう気がして恐ろしく思われたので、主人の山伏に向かって、
「これは、どのような罪人をこのように責めるのですか」と尋ねると、
「これこそは奥州の住人、結城上野入道という者で、伊勢国で死にましたが、阿鼻地獄へ落ちて責められているのです。もしあなたがその方に縁のある方でいらっしゃるのならば、生き残った妻子達に、一日、経を書き供養して、この苦しみをお救いなさいと仰ってください。私はあの入道が今度上洛したときに、鎧の袖に名を書きました、六道能化の地蔵菩薩です」と詳しく教えたので、その言葉がまだ終わらず、暁を告げる鐘の音が松を吹く風に響いて、一声かすかに聞こえると、地獄の鉄の城もたちまちかきけすように消えてなくなり、あの山伏の姿も見えなくなって、座に坐っている僧だけが、野原の草の露の上に茫然と座っていたのだった。
 夢ともうつつとも分からないままに、夜がすでに明けたので、この僧は現れた不思議なことに驚いて、急いで奥州に下り、結城上野入道の子、大蔵権少輔にこのことを語ると、父の入道が伊勢で死んだことをまだ聞いていなかったので、「これは皆夢の中の妄想か、現実の中の怪異か」と、事実ではないように思った。
 その後三、四日して、伊勢から飛脚が下って来て、父の上野入道の遺言の様子や臨終の恐ろしい姿などを詳しく語ったので、僧の言うことは一つも間違いのないところだったと信用して、七日ごとの忌日に当たるたびに一日経を書いて供養し、孝行の追善供養をした。
 「『もし法を聞くことあらん者は一人として成仏せずということなし』というのは如来の尊い言葉、この経の趣旨なのだから、八寒八熱の地獄の底までも、悪行も猛火はただちに消えて、清涼の水が湛えられるだろう」と、導師が仏を称える言葉を述べて、ありがたい言葉で説かれたので、聞く者は喜びの涙を流し、袂を濡らした。
 これは全て地蔵菩薩の立派な教化であって、あの様子を見せて追善をなさせるためのものだった。仏との縁の多少によって、利益の厚薄はあっても、現世の導師、大慈大悲の菩薩に出会うならば、僧の願いでも俗人の願いでも、よい願いは叶えられるだろう。現世でも来世でも、立派な導きをするという仏の御誓願はありがたいものである。

 
《結城入道は、もともとは北条に仕えていた人です(巻第二・三章2節)が、新田が蜂起して鎌倉を攻めた時に新田に付いたようで(コトバンク)、その後、三井寺の合戦(巻第十五・三章2節)やそれに続く京での合戦(同・四章3節、五章3節)で活躍し、北畠顕家の二度目の上洛に際して同行して再度上洛し(巻第十九・七章1節)、顕家が討たれた後、吉野に残っていたようです。
 このようにこれまで幾度も出て来ましたが、いずれもただ名前が出ているだけ具体的な行動はほとんど語られておらず、ここに言われる「『十悪五逆』の悪行があり、罪障がこの上ない悪人」というような極悪非道の様子は見られませんでした。
 しかし戦乱の中で生きた人は誰しもが、多かれ少なかれ、非道な行いは避けられなかったということはあるのでしょう。ここの話は、そういった人々の不安を、結城に代表させて、潔斎しようという狙いでしょうか。作者の、ここまでの登場人物に対する供養という感じです。
 かくして、新田義貞の現世の物語が終わって(彼は怨霊となってこの後も折々活躍するようです)、この巻も終わりとなり、分量的に全四十巻のちょうど半分を読み終わりました。以下、巻が改まって、情勢が大きく転換して行くことになります。》

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 吉野では、奥州の国司が阿部野で討たれ、春日少将が八幡の城を落とされて、兵士たちは皆力を落としていたが、新田殿が北国から攻め上るということが帝に伝えられていたのを頼りになされて、今か今かとお待ちになっているところに、この人も足羽で討たれたと伝わったので、蜀の二代皇帝が孔明を失い、唐の太宗が魏徴の死を悲しんだように、帝のお心は穏やかでなく、兵達も皆顔色を失ったのだった。
 この頃奥州の住人結城上野入道道忠という者が参内して、
「国司顕家卿が三年の間に二度も大軍を動かして上洛されましたことは、出羽、奥州の両国が皆国司に従って、賊徒が隙を突くことができなかったからです。国の人々の心が変わらないうちに、皇子を一人派遣いただいて忠功の者たちに直接恩賞を与えられ、不忠不義の者どもを根絶し征伐して、命令をお下しになれば、必ず攻め従えることができるでしょう。国の地図を見ますに、奥州五十四郡はほとんど国の半分に及びます。もし兵が全軍で一方に味方すれば、四、五十万騎も揃うでしょう。私が皇子を奉じ申し上げて老骨に兜をかぶりましたなら、再び京都に攻め上り『会稽の恥』を濯ぐことは、一年の内を過ぎることはないでしょう」と申し上げると、帝を初めとしてお側の老臣は誰もが、
「この意見は、なるほどそうすべきだ」と賛同された。これによって、今年七歳におなりなる第八の宮を元服させ申して、春日少将顕信を補佐とし結城入道道忠を大将として奥州へお下しになった。これだけでなく、新田左兵衛義興、相模二郎時行の二人を「関東八ヶ国を平らげて、八の宮に力を貸し申し上げよ」ということで武蔵、相模へお下しになった。
 陸路は皆敵が強くて通りにくいと、この軍勢は皆、伊勢の大湊に集まって船を揃えて風を待っていると、九月十二日の夕方から風が止み雲が収まって海上が格別に静まったので、舟人は艫綱を解いて、遙か遠くの雲に向かって帆を揚げて船出した。
 兵船五百余艘が宮の御座船を囲んで遠江の天龍灘を過ぎた頃、海風が急に荒れて、逆波が立ち天を巻き返す。あるい帆柱を吹き折られ、小さな帆だけで走る船もある。あるいは舵を折って、海の流れに漂う船もある。日が暮れるとますます嵐は激しくなって、風の向きも一方に定まらないので、伊豆の大島、女良の港、かめがわ、三浦、由比の浜など、あちらこちらの港に吹き寄せられない船はない。宮がお乗りになった船一艘は広々とした海上に放り出されて、いまにも転覆しそうであるところに、輝く日輪が御船の舳先に現れたと思うと、風が突然逆風になって、伊勢国神風の浜に吹き戻し申し上げた。多くの船が行く方も知れなくなったのに、この船だけが日輪のお守りの中で伊勢国へ吹き戻されたということはただ事ではない。きっとこの宮がお世継ぎの君として天子の位にお即きになるということなのだと、ただちに奥州への下向をおやめになり、すぐにまた吉野へお返し申し上げたところ、果たして先帝御崩御の後、南方の天子の位をお継ぎになって、その方を新帝と申し上げたのは、すなわちこの宮の御事である。


《京都から同じ僻遠の地でも、九州は古くから中国への基地として開けていて、それなりに注目される場所だったわけですが、東北は最果ての未開の地であったような感じですが、どうもそうではなく、一大勢力として存在していたようです。奥州藤原三代の栄華もあったわけですから、当然でしょうか。
 一発逆転の期待を込めて、そこからの顕家の夢よもう一度と企てがなされたのでしたが、しかしそれもあえなく、遅れてきた台風によってだったのでしょうか、その端緒において頓挫してしまいました。『集成』が、作者は「新田物語はすでに完結したと見る」のだと言います。
 新田左兵衛義興は「義貞の次男。幼名徳寿丸」、相模二郎時行は「北条高時の次男。南朝に下って官軍に従軍したことが巻十九に見えた(六章)」(『集成』)。
 結城上野入道道忠については、次章で。》

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 新田左中将の首が京都に着くと、「これは朝敵の最たるものであり、幕府にとっての敵の筆頭である」ということで、大路を引き回して獄門に掛けられる。この人は前帝の寵臣で、武人としての功績は世に広く及んでいたので、天下の拠り所としてその厚い志を大切に思い、その恩顧を待っていた人は幾千万とも数が知れず京中にいたので、車馬は道に並び人々は街角に立って、これを見るに堪えず、泣き悲しむ声が止まなかった。
 中でも、あの奥方、勾当内侍局の悲しみを伝え聞くのは、哀れなことであった。この女性は頭大夫行房の娘であって、立派な家の深窓に育てられ、みごとな襖の中で美しく装い、十六の春から内侍に召されて帝の傍らに仕えて、綾絹や薄衣にさえも堪えないような楚々とした容姿は、春の風が一片の花を吹き残したかと疑われるほどである。紅や白粉を巧みに使った顔は、秋の雲から川面を照らす月が現れたようである。だから後宮の多くの女性は帝の訪れがたいそう稀であることを悲しみ、宮中の水時計が夜の時を告げる音を聞きながら、一夜の長いことを恨めしく思うのだった。
 去る建武の始め、天下が再び乱れようとした時、新田左中将は常に召されて内裏の警固をお勤めした。ある夜、月が冴え冴えとして風の冷たい時に、この勾当内侍は簾を半ば挙げて琴をお弾きになっていた。中将は、そのもの悲しい音色に心引かれて思わず宮中の月の庭にさまよい出て、不思議に心がむやみに惹かれたので、唐垣の脇に隠れて覗いていたのを、内侍は見ている人がいると戸惑って、琴を弾くのを止めてしまった。夜がたいそう更けて有り明けの月が陰りなく輝いている中で、「たぐひまでやはつらからぬ」と」つぶやいてそっと横になった様子が手折れば落ちてしまう萩の露か拾えば消えてしまう玉笹の霰よりもなおなまめかしいので、中将は行く先も分からないような恋の道にさまよう気持ちで、帰る方向も定かでなく、淑景舎の傍らで立ち尽くして、眠らないままに夜を明かした。内裏から早朝に帰って後もほのかに見た面影がなおも目の前にあるような気がして、普段の仕事や人の言葉も上の空であったので、時の経つのも分からないまま起きるでもなく寝るでもなく夜を明かし日を暮らして、もし案内してくれる人でもいれば、忘れ草が生えているという海辺の辺りへでも尋ねていきたいものだと、ひたすら思い沈んでいらっしゃる。あまりにやりきれないので、仲立ちをする人を探し出して、そっと思いを知らせるはかない言葉をはっきりとではなくとも、と思って、
 わが袖の涙に宿る影とだにしらで雲居の月やすむらん
と詠んでお届けになったところ、帝がお聞きになったりすることも憚られると、本当に心引かれた様子には見えたが、手にさえ取らない、と使いが帰ってきて話したので、中将はますます元気をなくして、言いようもなく「あるを頼みの命」とも思われなくなりそうであったが、誰が帝にお伝えしたのか、帝はかりそめの思い出はないとお聞きになって、
「無粋な東人の分別の付かなさに、見そめたのは無理もないことだ」と哀れなこととお思いになったので、御遊びの折に左中将をお召しになり、「勾当内侍を、この盃に添えて」と仰った。左中将はこの上ないことと喜んで、次の夜早速牛車をきちんと調えて、こういう次第でと申し入れさせたところ、内侍もすでにこの長い間の気持ちに、「誘う水あらば」と思っていたのだろうか、それほど夜が更けないうちに車のきしる音がして、中門に轅を止めたので、侍女が一人二人で妻戸を閉じて言葉を交わした。
 中将はこの何年間か恋い偲んで来て逢う今の気持ちは優曇華の花が春を迎えたような思いで、陽台山で神女と逢いたいと願った楚の懐王のような願いが叶い、連理の枝の契りを結び、驪山の玄宗と楊貴妃のように睦まじく過ごしたのだった。
 分別もなく惑う心を諫める人もいなかったので、去る建武の終わりに朝敵が西海へさすらった時も、中将はこの内侍とのしばらくの別れを惜しんで、討伐の出兵が遅れ、後に延暦寺へ臨幸の時も、攻め寄せた軍勢が比叡山から追い落とされて、そのまま攻めていけば京も攻め落とせそうだったのだが、中将が内侍に心を奪われて、勝ち戦の勢いに乗って敗軍を攻める戦いをしなかった。その失敗で、結局敵のために国を奪われたのだった。まったく「一度笑えば、国を傾けることができる」と古人がこのことを戒めたのももっともなことだと思われた。
 中将が坂本から北国へお下りになった時には、道中の困難を考えてこの内侍を今堅田という所に留め置かれた。そういうふうではない時の別れでさえ、行くのには後を振り返って、故郷の山を見、残る者は行く先を思い遣って、涙を夫のいる遠い地の雨に添えるものである。まして中将は、行く末も期待の持てない未開の国にいらっしゃるのだから、生きて再び会うことも約束できない。また内侍は都近くの漁師の家に身を隠されたので、今にも探し出されて辛い名を人に聞かれるのではないかと、ひととおりでなくお嘆きになる。
 翌年の春、父行房朝臣が金崎でお討たれになったと聞くと、辛い思いの上に悲しみも加わって、明日までも生きていられるかと嘆き沈まれたけれども、さすがに露のように消えると言うわけではないので、寝ても覚めても涙に暮れて二年あまりになったのだった。
 中将も越前に着いた日から、すぐに迎えを上らせたいとお思いだったけれども、道中も安全ではなく、また人がどう思うのかと憚りもあったので、ただ時々の便りだけをお互いに他にない頼りとして年月をお送りだったけれども、その年の秋の始めに、もう道中も穏やかになったからということで迎えの人を上らせられたので、内侍はこの三年暗い闇夜に迷っている思いだったのが急に晴れ渡った気がして、すぐに杣山までお下りになった。ちょうど中将は足羽という所に向かっていらっしゃるということで、ここには誰もいなかったので、杣山から輿を回して浅津の橋をお渡りになるところに瓜生弾正左衛門尉が百騎ほどで行き合ったので、馬から飛び降りて輿の前に平伏して、
「あなた様はどこへ行こうとしてここへおいでになったのですか。新田殿は昨日の夕方、足羽という所でお討たれになりました」と言うと、涙をはらはらとこぼすので、内侍局は、
「これはどういう夢が現実になったのか」と胸が詰まって、茫然として、かえって涙もこぼれず、輿の中にうつ伏して、
「せめてその方のお討たれになった野原の草の露の下にでも、わが身を捨て帰って下さい。長く生き残っていたくない、一緒に消え果ててしまいたい」と泣き悲しまれるけれども、「早くその輿を杣山に返せ」ということで、急いでまた杣山へ返して城にお入れした。これがこれまで中将殿がお住まいだったところなのだと思って、色紙を散らして貼った襖障子をご覧になると、ちょっとした手すさびに書かれた言葉までも、ただ都へ早くと、はっきりと書かれた言葉ばかりを書き置き、歌も詠み残されている。こんなはかない形見を見るにつけても、ますます悲しみばかりが深まっていくので、心が少しも慰まないけれども、中将の住み残された跡なので、ここで四十九日を過ごして亡き後をお弔いしようとお思いになったのだが、すぐにその辺りも騒がしくなって、敵が近づくなどとも噂されたので、「城の近くはよくないだろう」と、すぐにまた京へ上らせ申し上げて、仁和寺の近くの粗末な家の、持ち主さえも住まなくなった草深い家にお送り申し上げる。
 都も今はかえって旅先のようなので、住まいも定まらず、心は上の空で涙がちで、どこに身を置く場所もないと、昔の知り合いの行方を尋ねて、陽明門の辺りへいらっしゃった道で、人がたくさん集まって、「お気の毒に」などと言っている声がするのを何事だろうかと立ち止まってご覧になると、越前まで遙かに尋ねて行って会えないままに帰ってきた新田左中将義貞の首が獄門の木に懸けられて、目は塞がり顔色も変わっている。内侍局はこれを二目とはご覧にならないで、傍らの築地の陰に泣き伏されたのだった。知る人も知らない人もこれを見て、一緒に涙を流さない者はいなかった。
 日はすでに暮れたけれども、帰る気にもなれないので、道草の露に濡れて泣いていらっしゃるのを、近くの寺の僧が、
「あまりにお労しく見受けますので」と言って、中へお連れ申したところ、その夜すぐに美しい黒髪を降ろし、若い身を僧衣にお包みになる。しばらくの間は亡き人の面影が離れず泣き悲しまれたが、会者定離の道理に、愛別離苦の悲しみを離れ厭離穢土の気持ちが日に日に進んで、欣求浄土の思いが時と共に増したので、嵯峨の奥の往生院の近くにある粗末な庵で、明け暮れ仏道にお勤めになったのだった。


《長くなりましたが、ひとまとめで読みたいと思います。
 勾当内侍は、二年半前、義貞が西国へ出陣する際に後醍醐帝からいただいて、「その頃天下第一の美人と評判だった」彼女への愛着のために出陣が遅れ、足利打倒の好機を逃したという話で、語られていました(巻第十六・四章1節)が、実は、そこに到るまでにこのような大変ななれそめがあったのでした。
 途中に「中将はこの何年間か恋い偲んで来て」とありますが、「何年間」は二年以上と考えて、西国出陣の建武三年(一三三六)三月から逆算すると、義貞が上洛した建武元年(一三三四)正月(巻第十二・三章)以後間もない頃からの「ある夜、月が冴え冴えとして風の冷たい時に」彼女の琴を聞いて、以後ずっと彼女を慕い続けていたという縁だったことになります。
 そして義貞が越前の国府を落としたのが延元二年(一三三七)二月(本書ではそうなっていますが、史実では翌年暦応元年だそうです)で、「その年の秋の始めに、もう道中も穏やかになったからということで迎えの人を上らせられた」というのは、その年の、義貞が討ち死にした閏七月の少し前のこと、ということになります。
 内侍は「この三年暗い闇夜に迷っている思いだった」とありますが、一三三七年から遡ると数え年で三年前は一三三五年で、まだ二人は一緒になっていないので、やはり史実に従って、一三三八年からとした方が、義貞の越前へ下ったころで、勘定が合います。
 ともあれ、春宮(恒良親王)の一宮御息所(巻第十八・七章)に続く、二人目の女性としての波瀾万丈の生涯です。》

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 脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸城へ帰って義貞の行方をお尋ねになると、始めの頃ははっきり知る人もなかったが、事の様子が次第にはっきりしてきて、「お討たれになったのだ」と話が一致したので、
「日を措かずに黒丸へ押し寄せて、大将のお討たれになった場所で一緒に討ち死にしよう」と仰ったが、いつの間にか兵は皆気が抜けてただ茫然とするばかりで、これといった空元気もないのだった。
その上に、人の心もすぐに変わってしまったのか裏切り者が中にいると思われて、石丸城に火を懸けようとすることが一夜のうちに三度あった。これを見て、斉藤五郎兵衛尉季基と同じく七郎入道道猷の二人は、他の者とは違う左中将の側近だったので門前の左右の脇に詰め所を並べていたのだが、その陣を捨てて夜の間にどこへともなく逃げてしまったのだった。ある者は発心もしない出家をして往生院長崎の道場に入り、ある者は縁故を頼って罪を詫びて黒丸城へ降参する。昨日まで三万騎を超えていた兵達も、一夜のうちに逃げ失せて、今日はわずかに二千騎にも足らなくなった。
こうなっては北国に踏み留まることもできまいということで、三峰城に川島を籠もらせ、杣山城に瓜生を置き、湊城に畑六郎左衛門尉時能を残されて、閏七月十一日に義助、義治父子は一緒に禰津、風間、江戸、宇都宮の軍勢七百余騎を連れて、越前の国府へお帰りになる。


《ここの最初は「脇屋右衛門佐義助が」とすると、読みやすくなりますが、原文が「は」となっています。ここから義助が主人役を務めることになるわけです。
 長く兄・義貞と行動をともにして、影の形に添う如くに様々な活躍をしてきた義助が、今や一人になって、一党の命運を握ることになりました。彼こそは、まさにもはや討ち死にするしかない心境だっただろうという気がします。
 しかしまさか一人で殴り込みもならず、一族に黒丸城攻撃を誘いますが、あまりに圧倒的な主人を失った人々は、決起する気力を失っていました。原文は「いつしか兵あきれ迷うて、ただ惘然たる」です。諸注、「途方に暮れて」としていますが、それではまだ方向性の意識がある感じで、ここは魂が抜け落ちてしまったような状態を言っているように思います。
 虚空に放り出されたような心理状態の中から、脱落者が続出しました。やむなく脇屋は黒丸城(福井市)から国府(旧・武生市)まで南下、撤退することにしました。ただ、三峰は鯖江市で国府の四㎞北、杣山は国府から十五㎞ほど南で、ほぼひとまとまりと言えそうですが、湊は三国町だそうで、足利勢がいる福井市周辺を飛び越して北になります。まさに「残されて」ということになったようです。
 さて、「北国に踏み留まることもできまい」ということですから、そこは仮の場所、そこからさらにどこへ向かうのか、それはずっと後の話のようです。》

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 戦いが終わって、氏家中務丞が尾張守の前に来て、
「私が新田殿のご一族かと思われる敵を討ち取りました。誰とは名乗りませんでしたので、名は分かりませんが、馬、武具の様子、付き従っていた兵達が死骸を見て腹を切り討ち死にいたしましたことで、きっと並みの武者ではあるまいと思われます。これがその死んだ者が肌に懸けていたお守りです」と言って、血もまだ洗っていない首に土の付いた金襴のお守りを添えて出したのだった。尾張守はこの首をよくよくご覧になって、
「何と思いがけないことだ。まことに新田左中将の顔つきに似ているところがあるぞ。もしそうならば、左の眉の上に矢の傷があるはずだ」と言ってみずから鬢櫛で髪をかき上げ血を洗い、土を洗い落としてご覧になると、果たして左の眉の上に傷の痕がある。これでますます心当たりがあって身につけていた二振りの太刀を取り寄せてご覧になると、金銀を打ち延ばして飾り、一振りには銀で金のはばき金の上に鬼切りという文字を刻んでいる。もう一振りには金で銀のはばき金に鬼丸という文字を入れられていた。これはともに源氏歴代の重宝で、義貞の所に伝わっていると聞いているので、下々の一族が身につけられる太刀ではないとご覧になると、ますます怪しいので、肌のお守りを開いてご覧になると、吉野の帝のご親筆で、「朝敵征伐のこと、叡慮の向かうところ、ひとへに義貞の武功にあり。選んでいまだ他を求めず、ことに早速の計略をめぐらすべきものなり」とお書きになっている。
「さては、義貞の首、相違なかったのだ」というので死骸を輿に乗せて時宗の僧八人に担がせて、葬礼のために往生院へ送られ、首を朱の唐櫃に入れて氏家中務丞を付けてひそかに京都へ上らせたのだった。


《氏家重国は「藤原北家、宇都宮氏の子孫」(『集成』)だそうですが、一介の田舎侍に過ぎないだろうその人が、とんでもない棚ぼたの大手柄に遭遇しました。ジャンボ宝くじ一等当選並みというか、いや、義貞は足利勢からすれば日本でただ一人の目標ですから、ただ一本の当たり籤当選並みというべきでしょうか。
 敵の総大将など知るよしもないながら、なにやら高貴の人と察知したところが立派で、首と一緒に必要な証拠物件を取りそろえて持ち帰り、主人に提出しました。
 『集成』が「(作者は)重代の名剣とお守り、さらには後醍醐帝の勅書を持ち出す。しかもこれらを最期まで身につけていたとすることによって、義貞の覚悟とその行動を支えてきたものがなんであったかを語る」と言いますが、確かにそこは大切な読み取りです。彼は我こそは源氏の嫡流という自負と、帝の官軍の大将という誉れの下に生きていたのだ、ということだと思います。
 「時宗の僧(原文は「時衆」)八人に担がせて」のところ、「時宗」について、『集成』が「(この頃の軍記物に)時衆が登場し、戦場に出かけて負傷者の手当てをしたり、死者の葬儀などを行った」と言いますが、この時、特にその僧に運ばせたというのは、何か意味があるのでしょうか。「ひそかに」を強調するなら、他の運び方もあったのではないかと思いますが、…。》

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