「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

カテゴリ: 巻第二十四

 ところで、この日壬生の民家に隠れていた謀反人達は逃げることなく皆討たれた中に、武蔵国の住人で香勾新左衛門高遠という者ただ一人が、地蔵菩薩が身代わりとなられたことによって死を免れたのは不思議なことだった。
 所司代の軍勢がすでに未明から押し寄せて十重二十重に取り巻いていた時、この高遠はただ一人敵の囲みを打ち破って、壬生の地蔵堂の中へ走り込んだ。どこに隠れようかとあちこち見ると寺僧かと思われる法師が一人堂の中から出て来て、この高遠を見て、
「そのようなお姿ではいけないでしょう。この数珠をその太刀を取り替えてお持ちなさい」と言ったので、なるほどと思ってこの法師の言うままに従った。こうしているところに寄せ手たち四、五十人が大庭に走り込んで、各門を閉ざして残るところなく捜した。高遠は長数珠を爪繰って「以大神通力便力、勿令堕在悪趣」と大きな声で唱えていた。寄せ手の兵達は皆これを見て本当に参詣人だと思ったのか、あえて怪しんで咎める者は一人もいなかった。ただ、仏壇の中、天井の上まで打ち破って捜せとばかり騒いだ。その時ついさっき何かを斬ったと思われて切っ先に血の付いた太刀を袖の下に引き寄せて持っていた法師が堂の脇に立っていたのを見つけて、「それ、ここにその落人がいた」と言って、捕らえ手三人が走り寄って抱え上げて倒し、腕を上から下まで縛って侍所へ渡したので、所司代都築入道はこれを受け取って狭い牢に入れたのだった。
 次の日一日経って、看守は目を放さず牢の戸も開けないまま、この囚人は姿をくらました。監視役が不思議に思い驚いてその跡を見ると、いい香りが座に残って、まるで牛頭栴檀の匂いのようだった。それだけでなく、
「この囚人を捕らえて縛った者たちの左右の手や鎧の袖、草摺りまでいい香りがいっぱいで、その匂いはいっこうに消えない」と話し合ったので、それではきっとただ事ではないということで、壬生の地蔵堂の扉を開けさせて本尊を拝見すると、もったいなくも衆生を救ってくださる地蔵菩薩のお体に、ところどころ刑の鞭のために肌が黒くなり、腕の上から下まで縛った縄がまだ衣の上に着いていたのは不思議だった。
 これを縛った者たちは涙を流して泣き、罪を懺悔してもなお足りず、すぐに髷を切って出家して発心入道の身となったのだった。
 高遠は縁に従ってこの世で命を助かり、刑吏は悪事が縁となって来世のご縁を戴いたことは、まことにあらゆる手立てで救うという如来のお言葉に違わず、現世、来世をよくお導きくださるということで、心強い御誓願である。


《この話は、「仏の身代わり説話として類型をなすもの」(『集成』)だそうですが、終わりに、高遠だけでなく刑吏も仏縁を得たのだとする考え方は、なるほどと思わされる、いい話です。争乱の中にこういう話があるのも悪くありません。
 かくして、巻が改まりますが、また新たな事件が起こります。》

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 その頃、備前国の住人三宅三郎高徳は、新田刑部卿義助に従って伊予国へ越えていたが、義助が死んだ後備前国へ帰って児島に隠れていて、なおも本意を遂げるために、上野国におられた新田左衛門佐義治をお呼びして、これを大将にして旗を挙げようと企てた。
 この頃また、丹波国の住人荻野彦六朝忠が、将軍を恨んでいることがあると伝えられたので、高徳がひそかに使者を送って意志を通じたところ、朝忠は喜んで応じた。
 両国がいよいよ日を定めて兵を挙げようとしたところで、すぐに事が漏れ伝わって、丹波へは山名伊豆守時氏が三千余騎で押し寄せ、高山寺の麓十㎞四方に土塀で囲んで兵糧攻めにしたので、朝忠はついに戦いに疲弊して降伏して出て行った。
 児島へは備前、備中、備後三ヶ国の守護が五千余騎で攻め寄せたので、高徳はここでは本意を遂げるほどの戦いはできないと思ったのか、大将義治を引き連れて海上から京へ上って、将軍、左兵衛督、高、上杉の人々を夜討ちしようと企んだ。「兵が少なくては、叶わないだろう。回状を回して味方する軍勢を集めよ」ということで、諸国へこのことを触れ遣ると、あちこちに身を潜め姿を変えて隠れていた宮方の兵千余人が日を夜に継いで馳せ参じてきた。この軍勢が一ヶ所に集まったら人にあやしまれると、二百余騎を大将義治に預けて東坂本に隠しておき、三百余騎を宇治、醍醐、真木、葛葉に留めて置き、優れた兵三百余人を京白河に散開させて、わざと一ヶ所には置かなかった。
 いよいよ明日の晩木幡峠に打ち寄せて将軍、左兵衛督、高、上杉の屋敷へ四手に分かれて夜討ちしようと合図を決めた前の日、どうして伝わったのか、当時の所司代都築入道が二百余騎で、夜討ちの案内をしようというので屈強の忍びの者たちが隠れていた四条壬生の宿へ、夜明けに押し寄せた。立て籠もっていた兵達は、もともと命知らずの者たちだったので、矢のある限り射尽くして、皆腹を掻き切って死んだのだった。
 これを聞いて、あちこちに隠れていた仲間の謀反人達もみなちりぢりになったので、高徳の手配が狂って、大将義治も共に信濃国へ逃げて行った。


《ここまで来ても、まだ一発逆転をもくろむ者たちがいたようですが、三宅三郎高徳は、実はこれまでの児島高徳のことだそうで、それなら、なるほどという気もします。
 新田義治は義助の息子ですが、この人は、後醍醐帝崩御を受けて解散しそうになった南朝の人々に、吉野の吉水法印が今後支えとして頼むべきとして列挙した人の中に、越前にありとして挙げられた(巻第二十一・四章2節)後、出てきておらず、ここでいきなり上野国にいたとされます。父・義助らが足利に越前を追われて美濃から吉野へ行く間に、新田のホームグランドに帰されていたということでしょうか。数えると二十二歳になっているはずです。
 義治も、かねて知った武将の誘いに、勇躍馳せ参じたといったところだったでしょうが、すでに幕府の体制もそれなりに整って情報網も役目を果たしたのでしょうか、企ては事前にもろくも潰えてしまいました。
 なお、この事件は、史実では、天龍寺開山供養の前年なのだそうです。》

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 尊氏卿と直義朝臣がすでに堂にお入りになると、勅使藤中納言資明卿と院に仕える高右衛門佐康成が参列して、すぐに法会が始まった。その日は何事もなく暮れた。
 明ければ八月の終わりである。その日はまた、御結縁のために両上皇の御幸があった。昨日とは事の様子が変わって、見物の貴賤の人々が村に足の置き場もなく集まった。御車が総門に着くと、牛を放して人の手で引き入れる。御牛使い七人は皆持明院の者ということで、綱を取っては名高い上手である。なかでも松一丸は巧みな使い手で、綾織りの衣裳に金銀を散りばめている。上皇が御簾を挙げて見物の人々をご覧になられる。生練貫のお召し物に御直衣、雲の模様、絹の単衣、薄紫色の御指貫をお召しである。竹林院大納言公重卿は濃い黄赤色に牡丹を織り込んだ白裏の狩衣に、薄紫の絹の単衣、金銀を散らした絹地に藤の渦巻く模様、青にびの絹の単衣の指貫で御車寄せに参上なさる。左宰相中将忠季卿は薄紫で裏なしの織物の狩衣に蔦を紋に織っている。女郎花の衣に浮き紋を織り込んだ浅黄色の指貫でお供なさる。殿上人としては、左中将宗雅朝臣が浮き織りの模様の女郎花の狩衣に、桔梗を紋に織っている。薄紫の絹の単衣の衣、渦巻く藤の模様の指貫である。頭中将宗光朝臣は紫苑色の唐草を織った絹の単衣に紅の単衣の小袖が際立って見えた。春宮権大進時光は、模様を浮き織りにした綾織に経青緯紫で萩を織り出し、青く織った女郎花の絹の単衣の衣、紅と藍の指貫である。
 その後ろは、北面の武士の下級の者たち、中原季教、源庸定、同じく康兼、藤原親有、安部親氏、豊原泰長、御随身として秦久文、同じく久幸がそれである。参列の公卿は、三条帥金季卿、日野中納言資明卿、別当四条中納言隆蔭卿、春宮大夫実夏、左兵衛督直義が、それぞれが皆装束を競っている。
 仏殿の北の廊の四間を飾って、大きな紋を散らした畳を重ねて敷き、その上に毛織りの敷物が広げられている。敷物の御座がその北にある。西の間に屏風を立て隔ててお休み所に作ってある。御前には飾り物の山水の置物を据えられている。大堰川の景色を表して紅地の錦で紅葉の流れる様を写して興趣を盛り上げている。これは三宝院賢俊が幕府の命を受けて調えた。仏殿の裏二間を作って御簾を掛け、説法を聞く所にしてある。その北に畳を敷いて公家の座とされている。仏殿の庭の東西に幕を引いて、左右の楽人十一人が唐装束で床机に坐っている。左には光栄、朝栄、行重、葛栄、行継、則重である。右には久経、久俊、忠春、久家、久種である。鳳笙、龍笛の楽人十八人、新秋、則祐、信秋、成秋、佐秋、季秋、景朝、景茂、景重、栄敦、景宗、景継、景成、季氏、茂政、重方、重時がそれである。
 夢窓国師がいよいよ山門から進み出られると、楽人が幕を巻き揚げてしばらくの間合奏する。聴聞の人々はこの時涙を流した。導師が金襴の袈裟に沓を履き、むしろを敷いた路をお進みになると、二階堂丹後三郎左衛門が衣笠を差し掛け、島津常陸前司、佐々木三河守の二人が綱で傘を支えて一緒に進む。左右の楽人達はどちらも皆幕から立って、貴人への挨拶があって万秋楽の破を演奏し、舞台の下に列を作ると法会に招かれた僧が導師について入堂される。南禅寺の長老智明、建仁寺の友梅、東福寺の一鞏、万寿寺の友松、真如寺の良元、安国寺の至孝、臨川寺の志玄、崇福寺の慧聰、清見寺の智琢、そして当の天龍寺の当事者として士昭首座、これらは天下の聖賢である。釈尊の十弟子に倣って随行する装束は荘厳である。その後、正面の戸を閉じて、願文の説法がしばらく続く。法会が終わると、楽人が幕に帰って舞が行われる。左に蘇合、右に古鳥蘇、陵王荒序、納蘇利、太平楽、狛杵である。中でも荒序はこの道の秘曲で、簡単にはこれを演奏しないものだが、たまたま上皇臨幸の席である。省くべきではないということで、朝栄荒序を舞ったので、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂が受け持った。その道における面目であり、天下の壮観であること、類を見ないことである。この後、国師が香をつまんで「今上皇帝聖躬万歳」と祝されると、布施の役として飛鳥井新中納言雅孝卿、大蔵卿雅仲、一条二位実豊卿、持明院三位家藤卿、殿上人としては、難波中将宗有朝臣、二条中将資将卿、難波中将宗清朝臣、紙屋川中将教季、持明院少将基秀、姉小路侍従基賢、二条少将雅冬、持明院前美作守盛政、諸大夫としては、千秋駿河左衛門大夫、星野刑部少輔、佐脇左近大夫が、金銀珠玉を初めとして、綾羅錦繍はもちろん、和漢の間で名前だけは聞いてもまだ見たことのなかった珍宝を、並び持って山のように積み上げた。まったく、王舎城の昔、五百台の車に珍宝を積んで仏に差し上げたというのもこれ以上ではあるまいと思われた。全てについてこの二日間の儀式を見る者全ての人の福徳と智慧を得て衆生利益の道を広くしたことは、この国師以上の人はないだろうと、宗派を改めて禅宗に帰依し、片意地な思いをなくしたのだった。あれほど混乱した大法会をことなくなし終えて、天子の御願と武家の帰依を同時に達したと非常にお喜びになった。
 そもそも仏を作り寺を建てるという善行は大変優れたことではあるが、願主が少しでも驕りの気持ちを起こすときは、法会の乱れが起こって、三宝を長く保てない。だから、梁の武帝が達磨に対して「私が寺を建てること千七百余ヶ所、僧尼を供養すること十万八千人だが、功徳はあるか」とお尋ねになったときに、達磨は「ない」とお答えになった。これは本当に功徳がないというのではない。皇帝の心の驕慢を破って悟りの大善に導くものである。
 我が国の昔、聖武天皇が東大寺を建立され、金剛の四十八mの盧舎那仏を安置して供養を果たされた時に行基菩薩を導師に招かれた。行基が勅使に向かって「天皇の御命令は重く、お断りするわけにはいかないけれども、このような御願はただ仏の心の向かうところに任されるべきですから、供養の当日、香華を供え経を唱えて、天竺から立派な僧をお招きして、供養を行われるのがよいでしょう」とお取りはからい申された。天子を初めとして諸卿の皆は世がすでに末世となり、どうして何万㎞もの海の向こうの天竺から急に導師が来て供養をなされようかと、たいそう疑いながら、行基が取り計らう以上は異議を挟めないと、明日が供養という日まで導師が定められない。いよいよその日になった朝、行基自ら摂津国難波の海岸にお出になって西に向かって香華を供え、敷物を敷いて礼拝なさると、五色の雲が天に現れ、一艘の舟が波間に浮かんで、天竺の僧が忽然としておいでになった。神々が絹の傘を捧げて港の松がみずから雪をかぶって傾くかと驚かれ、よい香りが衣に漂って、難波の梅が突然春を迎えたかと不思議に思われた。たちまち奇蹟が出現して人々の信心はひととおりでない。
 行基菩薩は早速天竺の婆羅門僧正の御手を引いて、
  伽毘羅会に共に契りしかひありて文殊の御貌相見つるかな
と一首の歌をお詠みになると、婆羅門僧正が、
  霊山の釈迦のみもとに契りてし真如朽ちせず相見つるかな
とお詠みになる。供養の儀式は、かえって言葉では言い尽くせるものではない。天の花が風に散り乱れて、いい音が雲間にゆるやかに聞こえた。上代にも末代にもめったにない供養であった。
 仏閣の供養は全くこのようであるべきだが、この天龍寺の供養のことについて延暦寺がむやみな強訴をし、ついに帝の法会となる儀式を止めたのはただ事ではなく、きっと僧俗共に驕慢の心があるのであって、仏道の魔が妨害しようとしたのではないかと、人々は皆怪しんだが、果たしてこの寺は二十余年の間に二度も火災になったのは不思議なことである。


《壮麗な法要の様が語られますが、供養の法要の日自体は最初の二行で終わって、ここに語られているのは、その翌日の「両上皇(花園、光厳)の御幸」の時の様子のはずです。しかし、後の行基と聖武天皇の話といい、最後に「この天龍寺の供養」と結ばれていることといい、作者にもこの日が供養の法会そのものと意識されているように見えます。
 最後の、延暦寺の強訴についての作者の見解がよく分かりません。そもそもこの天龍寺建立の話は、「武家が…無意味な贅沢に耽って、身には派手な衣裳を着て、…国が政治を行わないこと」の例として書き始められた(二章)はずで、そうすると、作者と動機は異なっていても天龍寺建立反対という点では一致するはずで、延暦寺の横やりを「むやみな(原文は「あながちに」)」と言ってしまうのは、落ち着きません。
 また、後の天龍寺の火災を仏道の魔の妨害だとすると、これも延暦寺の強訴が正当だったことになるように思われます。
 「僧俗共に驕慢」の「俗」は尊氏だとして、「僧」は延暦寺のことなのでしょうか。あるいは夢窓国師のことでしょうか。
 いや、そんなことより、「全てについてこの二日間の儀式を見る者全ての人の福徳と智慧を得て衆生利益の道を広くしたことは、この国師以上の人はないだろうと、宗派を改めて禅宗に帰依し、片意地な思いをなくしたのだった」というのなら、どうして「仏道の魔」がこの寺を「妨害」したりするのか、…。どうも作者の立ち位置がよく分かりません。》

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 そうと決まれば、幕府の処置として当日の供養を執り行い、翌日に御幸があるのがよいということで、その年八月二十九日、将軍と左兵衛督が道中の装いを調えて天龍寺へ参詣された。貴賤の人々が街に溢れて、僧俗はそこに群れをなし、前代未聞の壮観である。
 まず一番に、時の侍所で山名伊豆守時氏が華やかに鎧装束をつけた兵五百余騎を伴って先を行く。
 その次に、警固兵の先頭として、武田伊豆前司信氏、小笠原兵庫助政長、戸次丹後守頼時、伊東大和八郎左衛門尉祐熈、土屋備前守範遠、東中務丞常顕、佐々木佐渡判官入道の息子四郎左衛門尉秀定、同じく近江四郎左衛門尉氏綱、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、𠮷良上総三郎満貞、高刑部大輔師兼、以上十二人が、さまざまな色の糸毛の鎧に、烏帽子の上から紐を掛けて顎の下で結び、太った逞しい馬に大きな房を付けて列を組んでいる。
 三番目には、帯刀の役として武田伊豆四郎、小笠原七郎、同じく又三郎、三浦駿河次郎左衛門尉、同じく越中次郎左衛門尉、二階堂美作次郎左衛門尉、同じく対馬四郎左衛門尉、佐々木佐渡五郎左衛門尉、同じく佐渡四郎、海老名尾張六郎、平賀四郎、逸見八郎、小笠原太郎次郎、以上十六人が、濃く染めたさまざまな色の直垂に思い思いの太刀を着け、二列になって歩いて続く。
 その次に、正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿が小さな八枚の葉の紋を付けた貴族の車に簾を高く揚げ、衣冠を正してお乗りになっている。
 五番目には、後陣の帯刀役として、設楽五郎兵衛尉、同じく六郎、寺岡兵衛五郎、同じく次郎、逸見又三郎、同じく源太、小笠原蔵人、秋山新蔵人、佐々木出羽四郎左衛門尉、同じく近江次郎左衛門尉、富永四郎左衛門尉、宇佐美三河守、清久左衛門次郎、森長門四郎、曽我左衛門尉、伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人が、衣裳や帯剣は先と同じく行列の順序どおりに続く。
 その次に、参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義が巻纓の冠に老い懸を着け、蒔絵の細太刀を帯びて小さな八枚の葉の紋を付けた貴族の車に乗っている。
 七番目には、役人として南部遠江守宗継、高播磨守師冬の二人は御剣の役、長井大膳大夫広秀、同じく治部少輔時春は御沓役、佐々木吉田源左衛門丞秀長、同じく加地筑前三郎左衛門貞信は御調度の役、和田越前守宣茂、千秋三河左衛門大夫惟範は御笠の役、以上八人が無紋の狩衣に袴の裾をからげて列に続く。
 八番目には、高武蔵守師直、上杉弾正少弼朝貞、高越後守師泰、上杉伊豆守重能、大高伊予守重成、上杉左馬助朝房が無紋の狩衣に袴の裾をからげ半靴を履いて、二騎ずつ左右に並んでいる。
 九番目には、後陣の随兵として、足利尾張左近大夫将監氏頼、千葉新介氏胤、二階堂美濃守行通、同じく山城三郎左衛門行光、佐竹掃部助師義、同じく和泉守義長、武田甲斐前司盛信、伴野出羽守長房、三浦遠江守行連、土肥美濃守高実、以上十人が、戦姿に甲冑を金や玉を磨いたようにして身に着けている。
 十番目には、外様の大名五百余騎が直垂姿で従う。土佐四郎、長井修理亮、同じく丹波左衛門太夫、摂津左近蔵人、城丹後守、水谷刑部少輔、二位街道安芸守、同じく山城守、中将備前守、薗田美作権守、町野加賀守、佐々木豊前次郎左衛門尉、結城三郎、梶原河内守、大内民部太夫、佐々木能登前司、大平六郎左衛門尉、狩野下野三左衛門尉、里見蔵人、島津下野守、武田兵庫助、同じく八郎、安保肥前守、土屋三河守、小幡右衛門尉、疋田三郎左衛門尉、寺岡九郎左衛門尉、田中下総三郎、須賀左衛門尉、赤松美作権守、同じく次郎左衛門尉、寺尾新蔵人、以上三十二人が入り乱れて列を作らずに馬を進めていた。
 この後ろは、𠮷良、渋川、畠山、仁木、細川を初めとして、主だった氏族と外様の大名が入り交じって、弓矢や刀などを身に着けて、思い思いの鞍の馬で、大宮大路から西の郊外まで隙間なく袖を連ねて進んだ。
 芒ノ馬場から随兵、帯刀、直垂疑、無紋の狩衣の者たちは、全てが順序を守り列を連ねる。いよいよ寺の門に着くと、佐々木佐渡判官秀綱が検非違使として、黒袴を着た走り使いの僕や水干直垂の者、金糸銀糸を織り込んで糊の利いた装束の下人、こぎれいに鎧を着けた若侍三百余人、床机、敷皮に居並んで、山門を警固する。その行列の装いはあたりを威圧した。


《一応ここで一区切り、以上が賑々しい行列の全体の様子です。「三番目」は「以上十六人」とありますが、なぜか、十三人の名前しかありません。
 次は儀式の模様です。》

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 これによって三千の僧徒は憤りがひととおりでない。そこで、強訴すべきであるということで、康永四年八月十六日、三社の神輿を根本中堂へ上げて、祇園、北野の門を閉じ、日吉神社の獅子舞と田楽法師が庭に並び、神職と神主が御前に集まった。朝廷と幕府の決裁が主張を無視したので、叡山の存否が決まる時だと老若の僧たちは共に驚き嘆いた。それでもまだ足りないと、同じ十七日、剣、白山、豊原、平泉寺、書写、法華寺、多武峰、内山、日光、太平寺、その他の末寺、末社三百七十余ヶ所へ触れを送り、同じく十八日、四つの大寺へ書状を送った。まず興福寺へ送ったその書状には、
  延暦寺が興福寺の役所に連絡する。
   以前からの先例に倣って賛同して訴えを起こし、天龍寺供養の一件を停止され、ま
   た禅の寺院 の建立を廃絶させる仔細の書状
  右の趣旨は、仏法の大道は崇高であって、等しく天の日月のごとき教えを戴き、教え
  の門戸は広く開いてそれぞれに無尽蔵の海のごとき功徳を受けている。仏法は帝の徳
  が行き渡る基礎であり、帝の徳は仏法を護る要であって、双方が力を合わせて役立っ
  てきた。この道理が行われる由来は永い。そのようにして誤った考えを滅ぼし、間違
  った考えを払いのける勤めは、昔から今に及んで怠らなかった。朝廷を助け政道を正
  すことについて、貴寺と当寺と手を組んだのは、ひとえに先賢明王の願いによるもの
  である。尊く霊妙な神々のお見通しにすがってきた。国の安危、政治の要件はこれを
  第一とする。粗末にしてはならない。
  近年、禅家の振る舞いが天下に広まっている。経文を無視する徒党が世間に溢れてい
  る。始まりは最近だが、すでに天下に波風を立てている。この火を消さなければ、た
  ちまちに野を焼き尽くす噴煙となるだろう。我が寺々の威光は太陽のように掻き消さ
  れてしまうだろう。公家や武家の誤った信仰は、迷いの雲を晴らすことをしない。も
  し抑え留める事をしなければ諸宗の滅亡は疑いない。
  聞くところによると、先年大和国片岡山達磨寺はたちまちに焼き払われ、その住寺の
  法師は流刑に処せられたとのこと、貴寺の立派な行いである。この度、その先例は遠
  いことではない。
  ところが今、天龍寺供養の件について、このところ叡山はたびたびの訴えを起こして
  いる。今月十四日の院宣に、この度の事は勅命によるのではないとのこと。よって不
  満の訴えを止めて静かにしていたところ、勅言がすぐにくつがえった。供養は格別に
  厳かなものになった。院の公卿以下役人達がこぞって参加せよとのことだと言われて
  いる。朝廷の規則として理にかなっているだろうか。天下の非難するところであり、
  その言を侮ってはならない。わが山はすでに軽視されて面目を失った。神々の道は明
  らかにあるのであって、どうしてお怒りにならないことがあろうか。今となっては、
  再び訴えを起こし、重ねて帝のお耳に入れる。
  要するに、天龍寺供養において、院中のご沙汰による公卿の参列以下一切をおやめに
  なり、また御幸については当日、翌日を言わずいずれもこれをやめになること、さら
  にまた禅宗の興隆を廃絶するために、まず疎石を遠島に処され、禅院については天龍
  寺に限らず洛中洛外の大小の寺院をことごとく破壊し、永く達磨宗の跡を拭い去り、
  ぜひとも正しい仏法を広めること、これが唯一の仏門のあり方である。
  ぜひとも貴寺の協力をお願いする。ことは喫緊に迫っている。引き返すことはできな
  い。もし承認されるなら、日吉神社の神輿が京に入る時、春日神社の神木を同じよう
  に臨幸いただいて、それだけでなくあの寺の供養を進める奉行や参列を承諾している
  公卿殿上人らを供養以前にすべて除名処分にされ、その上なお出仕する者がいれば、
  貴寺および山門や寺院神社の人々を行かせてその家々に向かって厳しい咎めをするこ
  とを速やかに通達されたい。
  これらのことについて、協議を留めてはならない。返事が先例と同様であるならば、
  南都北嶺の和睦が、まずは世の太平を実現し、双方の道を同じくし、ともに永く繁栄
  することを約束しよう。宗派の教義を朝廷で論ずる時は、兄弟が家内で激しく争うの
  に似ているが、仏法を第一とすることではまた楚越同舟の志をともにすべきである。
  早速期に当たって滞らない勢いをもってすみやかに道理を見て勇む喚声を聞きたい。
  以上、申し上げる。
   康永四年八月日
と書かれていた。
 叡山がすでに南都へ書状を送ったと伝えられたので、返事がまだ返らないうちにというので、院の公卿や藤原氏の主だった臣下達が参列して訴え申されたのは、
「昔から叡山の訴えは、非を理となさる事が珍しくありません。その上、今回のことはいろいろ申していることは、その道理があろうかと思われます。特に仏事を行い、僧法を尊ぶことも天下が穏やかであってこそ、その意味もあるでしょう。神輿や神木が京に入って、南都北嶺が強訴に及べば、幕府が何と申しても、平穏でなければ法会も乱れましょう。そうしてまた勅願も無駄になってしまうと存じます。ぜひ速やかに御聖断あって、衆徒の不満の訴えを宥められて、その後に安心して立派な法会を行われるのがよろしいでしょう」とさまざまに申されたので、
「なるほど近年天下は半ば乱れて一日もおちつかず、この上に南北が神仏を担いで訴えに及び、衆徒が不満を募らせ怒るならば、もっての外の事件になるだろう」と、諸々の筋を曲げて、まず院宣を下されて、
「勅願のことは取りやめて、仏縁を結ぶ参詣のために翌日御幸が行われる」と仰ったところ、叡山はこれで静まって、神輿はすぐにお帰りになったので、宮中警固の武士もみな馬の腹帯を解いて、延暦寺の本地、末寺の門の戸も参詣のために開いたのだった。


《公家の決定に対して、当然叡山は反発します。例によって興福寺と手を組んで、圧力を掛けようとします。ただ、実はこの二つの寺の関係は微妙なようで、以前、手を組んで京都の尊氏を攻めたことがありましたが、あの時は結局「将軍から数カ所の荘園を寄付して相談された」ことで懐柔されて、裏切った経緯があります(巻第十七・六章1節)。
 しかし、ここでは興福寺が動く前に、公家が手を打ちました。それは幕府が言ったこととは違って、何とか妥協点を見いだそうというものです。つまり、天皇として行くのではなくて、式典の翌日にプライベートに参拝する形にしよう、ということのようです。
 こんなことで収まりが付くのなら、あの大ディベートはますます無用のものだったわけです。
 途中、臣下の訴えの初めのところは、ちょっと分かりにくいのですが、つまり、叡山はたとえ「非」でも「理」とするのだから、まして今回のようにそれなりに「理」があることには、どんな無茶をしてくるか分からない、という意味のようです。》

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