その頃、年内にすぐに即位の大礼を行わなければならないという協議がなされた。この年三月七日に行うと通知されたが、大礼は執行できなかった。しかしながら引き延ばしてばかりいることはできないというので、行わなければならないということになった。
そもそも大礼というのは、大内裏炎上の後は、代々の慣例として大極殿の儀式を太政官の庁に移されて行われる。内弁は洞院太政大臣公資公と伝えられた。即位の内弁を太政大臣がお勤めになるのは、先例では稀である。あるいはよくないことだと議論がまちまちだったのだが、勧修寺大納言経顕卿が進み出て、
「太政大臣の内弁の先例は二回である。保安と久寿の時のお二人である。保安はまことに悪い例と言うべきだ。一方久寿はまたよい例だから、その先例を嫌う必要はない。その上、今の太政大臣は事に当たるにふさわしい職に就き、名高い才覚の人である。だから帝も道義を尋ね、政道を問われるのだから、天子の師範として適任である。諸家も礼を学び、和漢の手本と仰いで、国の模範として人に恥じない」と申されたところ、皆異論なく是非を議論することなく太政大臣が内弁とお決まりになった。
外弁は三条坊門源大納言家信、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆である。左の侍従は花山院中条家賢、右の侍従は菊亭三位中条公真である。御即位の大礼は国を挙げての行事で、僧俗の集まる壮観は、他に類がないので、遠く近くの国の人々がやって来て群れをなす。両院も見物のために御幸なさって、外弁の仮屋の西南の門外に御車を置かれた。
帝と諸卿は大礼服を召されて、近衛府、衛門府の役人達は正装をする。四神の幡を中庭に立てられ、衛門府の役人が陣で鼓を打つ。紅旗は風に棚引き、描かれた龍は空に昇り、玉座の衝立は日に映えて鳳凰の模様は空を翔るようである。秦の阿房宮にも劣らず、呉の姑蘇台もこのようかと思われる。末世とはいいながら、このような大礼を執り行われることは、めったにないことである。この日はどういう日か、貞和五年十二月二十六日、天子が登壇、即位して、数度の大礼が無事に行われたので、この年はめでたく暮れたのだった。
《北朝の第三代、光厳帝、光明帝に続く崇光帝の即位式の経緯です。ここのタイトルは「大嘗会」となっていますが、実際には、大嘗会は行われず、ここに描かれているとおり即位の儀が行われたのだそうです。
この貞和五年(一三四九)は、正月に楠正行が四条畷に乱を起こして(巻第二十六・二章)以来、二月に清水寺炎上(巻第二十七・一章)、六月に四条河原の田楽桟敷の倒壊(同・二章)、八月には師直が将軍館を包囲(同・五章)と大事件が引き続いたのでしたが、最後の最後にこうした晴れやかで賑々しい儀式が催されて、一年が終わりました。
新しい年がいい年になるといいのですが、それは巻を改めて、…。》
そもそも大礼というのは、大内裏炎上の後は、代々の慣例として大極殿の儀式を太政官の庁に移されて行われる。内弁は洞院太政大臣公資公と伝えられた。即位の内弁を太政大臣がお勤めになるのは、先例では稀である。あるいはよくないことだと議論がまちまちだったのだが、勧修寺大納言経顕卿が進み出て、
「太政大臣の内弁の先例は二回である。保安と久寿の時のお二人である。保安はまことに悪い例と言うべきだ。一方久寿はまたよい例だから、その先例を嫌う必要はない。その上、今の太政大臣は事に当たるにふさわしい職に就き、名高い才覚の人である。だから帝も道義を尋ね、政道を問われるのだから、天子の師範として適任である。諸家も礼を学び、和漢の手本と仰いで、国の模範として人に恥じない」と申されたところ、皆異論なく是非を議論することなく太政大臣が内弁とお決まりになった。
外弁は三条坊門源大納言家信、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆である。左の侍従は花山院中条家賢、右の侍従は菊亭三位中条公真である。御即位の大礼は国を挙げての行事で、僧俗の集まる壮観は、他に類がないので、遠く近くの国の人々がやって来て群れをなす。両院も見物のために御幸なさって、外弁の仮屋の西南の門外に御車を置かれた。
帝と諸卿は大礼服を召されて、近衛府、衛門府の役人達は正装をする。四神の幡を中庭に立てられ、衛門府の役人が陣で鼓を打つ。紅旗は風に棚引き、描かれた龍は空に昇り、玉座の衝立は日に映えて鳳凰の模様は空を翔るようである。秦の阿房宮にも劣らず、呉の姑蘇台もこのようかと思われる。末世とはいいながら、このような大礼を執り行われることは、めったにないことである。この日はどういう日か、貞和五年十二月二十六日、天子が登壇、即位して、数度の大礼が無事に行われたので、この年はめでたく暮れたのだった。
《北朝の第三代、光厳帝、光明帝に続く崇光帝の即位式の経緯です。ここのタイトルは「大嘗会」となっていますが、実際には、大嘗会は行われず、ここに描かれているとおり即位の儀が行われたのだそうです。
この貞和五年(一三四九)は、正月に楠正行が四条畷に乱を起こして(巻第二十六・二章)以来、二月に清水寺炎上(巻第二十七・一章)、六月に四条河原の田楽桟敷の倒壊(同・二章)、八月には師直が将軍館を包囲(同・五章)と大事件が引き続いたのでしたが、最後の最後にこうした晴れやかで賑々しい儀式が催されて、一年が終わりました。
新しい年がいい年になるといいのですが、それは巻を改めて、…。》