「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

カテゴリ: 巻第二十七

 その頃、年内にすぐに即位の大礼を行わなければならないという協議がなされた。この年三月七日に行うと通知されたが、大礼は執行できなかった。しかしながら引き延ばしてばかりいることはできないというので、行わなければならないということになった。
そもそも大礼というのは、大内裏炎上の後は、代々の慣例として大極殿の儀式を太政官の庁に移されて行われる。内弁は洞院太政大臣公資公と伝えられた。即位の内弁を太政大臣がお勤めになるのは、先例では稀である。あるいはよくないことだと議論がまちまちだったのだが、勧修寺大納言経顕卿が進み出て、
「太政大臣の内弁の先例は二回である。保安と久寿の時のお二人である。保安はまことに悪い例と言うべきだ。一方久寿はまたよい例だから、その先例を嫌う必要はない。その上、今の太政大臣は事に当たるにふさわしい職に就き、名高い才覚の人である。だから帝も道義を尋ね、政道を問われるのだから、天子の師範として適任である。諸家も礼を学び、和漢の手本と仰いで、国の模範として人に恥じない」と申されたところ、皆異論なく是非を議論することなく太政大臣が内弁とお決まりになった。
 外弁は三条坊門源大納言家信、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆である。左の侍従は花山院中条家賢、右の侍従は菊亭三位中条公真である。御即位の大礼は国を挙げての行事で、僧俗の集まる壮観は、他に類がないので、遠く近くの国の人々がやって来て群れをなす。両院も見物のために御幸なさって、外弁の仮屋の西南の門外に御車を置かれた。
 帝と諸卿は大礼服を召されて、近衛府、衛門府の役人達は正装をする。四神の幡を中庭に立てられ、衛門府の役人が陣で鼓を打つ。紅旗は風に棚引き、描かれた龍は空に昇り、玉座の衝立は日に映えて鳳凰の模様は空を翔るようである。秦の阿房宮にも劣らず、呉の姑蘇台もこのようかと思われる。末世とはいいながら、このような大礼を執り行われることは、めったにないことである。この日はどういう日か、貞和五年十二月二十六日、天子が登壇、即位して、数度の大礼が無事に行われたので、この年はめでたく暮れたのだった。


《北朝の第三代、光厳帝、光明帝に続く崇光帝の即位式の経緯です。ここのタイトルは「大嘗会」となっていますが、実際には、大嘗会は行われず、ここに描かれているとおり即位の儀が行われたのだそうです。
 この貞和五年(一三四九)は、正月に楠正行が四条畷に乱を起こして(巻第二十六・二章)以来、二月に清水寺炎上(巻第二十七・一章)、六月に四条河原の田楽桟敷の倒壊(同・二章)、八月には師直が将軍館を包囲(同・五章)と大事件が引き続いたのでしたが、最後の最後にこうした晴れやかで賑々しい儀式が催されて、一年が終わりました。
 新しい年がいい年になるといいのですが、それは巻を改めて、…。》

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 気の毒に、都ではあれほど高い薄檜皮の屋根の立て並ぶ立派な屋敷に、車馬は門前に群れをなし客は殿中に溢れて、華やかにお住まいだったのに、竹の網戸に松の垣、時雨も風も防げないので、袂の乾く暇もない。だから、どんな宿業でこういう目に遭うのかと我ながら恨めしく生きても甲斐のない命と思っていたのに、なおも師直は不足に思ったのか、後に災いとなることも顧みず、ひそかに討手を遣って、守護代に相談して上杉、畠山を討つようにと命じたのだった。光勝は、もとは上杉の命に従う者だったが、武蔵守に誘われて急に心変わりをした者だったので、八月二十四日の夜中に伊豆守の配所江守の庄へ行って、
「昨日の暮れ頃に高弁定信が大勢で当国の国府に着きましたので、何事だろうと内々尋ねてみましたところ、あなた方をお討ちするために下って来たそうです。ここにいらっしゃっては、どうしてご無事でいらっしゃれましょう。今夜急いで夜に紛れてお逃げになって、越中、越後のあたりにお隠れになって、将軍のところへ事の子細を申し入れなさいましたら、師直らはすぐに将軍のお怒りを受け、あなた方の罪は軽くなって、きっとご帰参のこともあるでしょう。警固の兵達もいますので、道中のご不安はないでしょう。今すぐに討手の近づきませんうちにお逃げ下さい」と、本当に二心の無いように申し上げたので、騙すとは夢にもご存じなく、取るものもとりあえず、妻や子供までみな伴って、総勢五十三人が素足で徒歩という姿で加賀の方へお逃げになった。
 折しも霰混じりに降る時雨が顔を叩くようで、か細い田の中の道は、上は馬の足跡が凍り、踏めば深いぬかるみが膝まで埋まる。蓑もなく笠もかぶっていないので肌まで濡れとおり、手はかじかみ足は冷える中、男は女の手を引き、親は子を背負ってどこへ行くという当てもなく、ただ後ろから討手が攻めてくるかと恐ろしいままに逃げて行く心の中こそあわれである。
 八木光勝はあらかじめ近辺に触れ回り、「上杉、畠山の人々が流人の身で逃げて行くことがあったら、有無を言わさず皆討ち取れ」と言っていたので、江守、浅津、八代の庄、安居、波羅蜜の辺りにいた無法者達が太鼓を鳴らし鐘を撞いて「落人がいる、討ち取れ」と騒ぎ立てる。上杉、畠山はこれに驚いて、一歩でも先に逃げ延びようと慌てて転びながら足羽の渡し場へ着いたところ、川の橋を落として、足羽、藤島の者たちが対岸に楯を一面に並べ立てていた。それなら後へ帰って八木を頼ろうと、辛かった江守へ後帰りすると、また浅津の橋を外して、後ろにも敵が溢れている。まるで疲れた鳥が犬と鷹とに攻められるのもこうであろうかと思われる。これまで主人の行く果てを見届けようと付き従ってきた若党十三人は、主人の自害を勧めるために肌脱ぎになって皆一斉に腹を切り、その刀を引き抜いて上杉伊豆守の前に投げ遣り、
「御腰刀は少し長すぎるように見えます。これでご自害下さい」と言い終わらないうちに、うつ伏せになって倒れた。伊豆守はその刀を手に取りながら、残りわずかな憂き世の名残を惜しんで、妻の方をじっと見て袖を顔に押し当ててたださめざめと泣いているばかりで、何もしないで時を過ごされた。そうしているうちに八木光勝の手下に生け捕られて刺し殺されたのは浅ましいことだった。
 「武士たる者は、平生の振る舞いはどうあっても別に気にすることはないが、ただ最後の死に際だけは大事にしなければならないのに、見苦しくもお見えだった死に様だった」と不快に思わない者はいなかった。奥方は、
「長年ずっと睦み親しみ、昨日今日のお情けの様子は、いつ忘れられるとも思えない」と泣き悲しんで、同じ死の淵に身を沈めようと人の目の隙を求められたが、長年師として頼りにされていた僧が何とか止めて、往生院の道場で髪を剃り申して、亡き後の弔いを専一にされたと伝えられた。
一切がこのように終わったので、天下の政道はすべてが武家の師直の手に収まって、もはや乱れることはないと見えたのだった。


《言葉を尽くした道行き文でここまで送られて来た二人でしたが、この最後は悲惨です。もっとも、「都ではあれほど高い薄檜皮の屋根の立て並ぶ立派な屋敷に、車馬は門前に群れをなし客は殿中に溢れて、華やかにお住まいだった」と言われても、そういう話は語られていなかったように思いますし、むしろ讒言三昧といった語られ方でしたので、こういうふうに言われると、配流の暮らしの型どおりの書き方を踏襲しているに過ぎないという感じがします。
 田の中の細道での苦闘は何ともあわれですが、「若党十三人」のけなげな振る舞いに比べて、畠山はともかく、上杉の最期はどうにも見苦しく(とは言え、私もそうしかできないんじゃないかと思って、辛いのですが、それも合わせて)残念です。
 それにしても、こうした若党が、このような不利な状況になっても逃げ出すでもなく、いかにも潔く振る舞っているのに対して、少し上層部に当たる八木が、やり方もあろうに、かつての主人をかくも無残な死に追い遣るあたり、何とも言いようがありません。
 『集成』は「(このエピソードは)物語としてはこれら師直の手にかかった人々の怨念が…乱世の遠因になったとするところに、この小話を語る意味がある。人々の哀話が悲しければ悲しいほど、世の先行き、師直らの後日が思いやられるとするのが物語である」と言います。》

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 その頃、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔宗直を、所領を没収し宿所を壊して、共に越前国へ流し遣られた。この人々は、いくら何でも死罪が行われるまでのことは決してあるまいと当てにしておられたのか、しばしの別れを悲しく思って、奥方や子供達も皆連れてお下りになったが、馴れない旅路の床に涙し、起き伏し袖を濡らして、日頃からたしなんでいたことなので旅の思いを慰めようと一面の琵琶を鞍に懸けていて、宿の月の下でお弾きになると、王昭君が「胡角一声霜後の夢、漢宮万里月前の腸」と胡国の旅を悲しんだのもこうだったかと思い知られるのだった。
 嵐の中を逢坂の関を越えて、紅葉を幣として山の神に手向け、暮れて行く秋を送ることまでも身にしみて悲しく、逃れられない罪をわが身の上に思い、今は大津の東の浦に来て、思えばその浜の真砂の数よりも多い嘆きの種が思われる。尽きない思いをしながら滋賀の浦を行き、渚に寄せるさざ波が返っていくのも羨ましく、日吉三王七社を伏し拝み、身の行く末を祈っても、都に再び帰れるはずもない。「事は堅田に引く網の、目にもたまらぬわが涙」、今津、海津を過ぎていくと、湖水の霧の中にそびえて波間に見える小島がある。都良香が昔「三千世界は目の前に尽きぬ」と詠んだところ、「十二因縁は心の裡に空し」という下の句を弁財天がお継ぎになった竹生島はこれらしいと遙かに見て、しばらく供養する。塩津を過ぎれば「思ひ越路の」と詠まれた越路の秋の風が吹き、その音を聞きながら荒血山を越え、浅茅の色づく野を行けば、行く末も知れぬ敦賀の港に身を寄せて、袖に波がかかる思いがする。
 厳しく武者に警固され、矢田野はどこであろうか、帰る山にかかるが、その名も甲斐がない。治承の乱に義仲が籠もったという火打が城を見上げれば、蝸牛の角の上のような三千世界は火花のようなはかないこの世かと、今更驚くばかりである。無常が虎のように迫って身を責められながら上野が原を通り過ぎると、自分で起こしたことに心を騒がせても、月日の過ぎるのは早く、いつまで生きながらえられるものか。いずれは消えていく水の泡のような命ながら、流れ留まる配流の地、江守の庄に着いたのだった。
 当国の守護代細川刑部大輔と八木光勝がこれを受け取って、粗末な柴の庵の、しばらくもどうして住めようかとみるだけでも辛い住まいに警護の者を付けて住まわせたのだった。


《この二人は、「心が驕って振る舞いがほしいままになり人の道をも顧みず世間の嘲りも気付かない」(巻第二十六・六章)という高師直、師泰兄弟を讒言によって失脚させようと企てたのでしたが、その兄弟の奢侈に義憤を感じてというのではなく、最初の登場から「能力が乏しいが官位は人より上であることを望み、功績は少ないが褒賞は人以上に得ようとした」(同・七章)と紹介されていて、結局同じ穴の狢というところですが、それもいささかランクの下の狢に過ぎません。自分たちの直接の讒言が不発に終わったとみるや、そのころたまたま直義の寵を受けていた妙吉侍者に取り入り、その人を通してなお讒を図るなど、この物語ではあまり類例を見ない、どうもいただけない人達でした。
 配所へ妻子を伴って行ったというのも、あまりない話ではないかと思われて、覚悟が足りないというか、それはかえって大変なことになるのではないかとか案じられて、どうも変な人達です。
それにしては、ここの配流の道行きはずいぶんと力が込められていて、「嵐の中を逢坂の関を越えて」以下、江守の庄に着くところまでほぼ全体が、延々と七五調の流麗悲傷の文章で語られています。こんなに美しく語られなくてもいいのじゃないか、と思ってしまいます。文章の流麗と人物評とが一致せず、ちょっと落ち着きません。》

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 その頃直義は、世の中との交わりを止めて細川兵部大輔顕氏の錦小路堀川の宿所に移られたのだった。それでもなお師直、師泰は、直義がこのまま最後まで憤りを収められることはなさそうなので、自分たちのためによくなかろうと思って、ひそかになき者にしようと内々に相談していると伝えられると、その疑いを晴らそうと、まず世に望みはなく世をお捨てになった気持ちを分からせようというのか、貞和五年十二月八日御歳四十二歳で髪をお下ろしになった。まだ「強仕」とされる四十歳をいくつも過ぎていないのに、剃髪僧衣の姿になっておしまいになったことは、盛者必衰の道理と言いながら、なんとも悲しいことである。
 こういうことだったので、天下の執政に参与しておられた間はともかく、今は大きな屋敷に身を置いて立派な布団に寝るべきではないと、錦小路堀川に幽閉閑居のようなお住まいで、垣根は苔むし軒には松の古木がかぶさり、茅屋根は霧にかすんで、夜の月はおぼろに掛かる。荻の花が風にそよいで虫の音が侘しい。時移り事が終わって人もまた昔のままでないことを感じて、蔦の絡まる窓、粗末な屋根の内に坐って、経巻を手放される時がないのだった。
 折しも秋が暮れて時雨がちな冬も深まる。寂しさがつのる御簾の外には深く雪が積もって、自分の昔ははかないこの世の夢であったかと思われて、「雪を踏み分けて君を見んとは」と小野で詠んだ業平の気持ちが今更のように思われ、訪ねてくる人がいてほしいと思うけれども世間の耳を憚って来る人もなかったのだが、独清軒玄恵法印が師直の許しを得て時々やって来て、中国や日本の話をして慰め申していたのに、「老いの病で伺えません」と言ったので、薬を一包みお送りになって、その包みに、
  ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人も無き世に
とお書きになったところ、法印はこれを見て泣きながら、
  君が一日の恩を感じて   我が百年の魂を招く
  病を扶けて床下に坐す   書を披いて涙痕を拭ふ
と一首の小詩に万感の思いを込めて差し上げた。
 その後間もなく法印は亡くなったのだった。慧源禅閤(直義)があわれに思って、自分でこの詩の後に紙を継ぎ足して、『金剛波羅密多経』と『般若心経』の経文を写し書いて追善供養に供えられた。


《賑々しい義詮の入京を語って、今度は一転してその叔父直義の零落の姿を描きます。その身辺には、師直一派が自分たちの安全のために直義を討とうという相談まであって、足利と高の立場はすでに完全に逆転していたようです。終わりの慧源は「直義の出家後の法号」で、「禅閤」は「関白で出家した者の称。ただし直義はかんぱくにはなっていない」(『集成』)。
 なお、玄恵法印は、『太平記』の編者の一人とされる人です。『集成』第一分冊「解説」によれば、観応元年(一三五〇)以前のある日(ちなみに物語の現在は一三四九年一二月です)、「足利一族の廟所である京都の等持寺に、法勝寺の慧鎮上人が、当時執筆中であったと思われる『太平記』の中、さしあたり三十余巻を持参し、足利将軍尊氏に実弟で兄を補佐していた直義の閲覧に供した。当日、これを天台の碩学、玄恵に朗読させたのであるが、これを聞いた直義は、あまりに事実と違う箇所の多いことを不満に思って、書き入れや削除を命じ、その間しばらく他見を禁じた」のだそうです。当然ながら、この師直の事件が起こる、よほど前のこと、ということになります。
 ただし、今、ここは「巻第二十七」ですから、先の「解説」が「さしあたり三十余巻」と言っているのはへんではないかと思うのですが、どういうことなのでしょうか。
ともあれ、『太平記』は、この玄恵の死後も、なお書き継がれたわけです。》

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 その頃、三条殿は、師直、師泰の憤りが依然として深いので、天下の政務に関与できないでいた。将軍はもともと政務を人に任せておられたので、関東から左馬頭義詮を急いで上洛させられて、直義に代わって政務を行うように申しつけ、師直が諸事を補佐することに決まったのだった。
 この左馬頭というのは、千寿王丸といって長く関東に置いておかれたが、今はその器になっただろうと、執政のために上洛なさると伝わった。同年十月四日、左馬頭は鎌倉を発って同月二十二日入京なさった。
 入京の様子は格別な見ものだと、粟田口、四宮河原辺りまで桟敷を作って車を並べ、貴賤の人々が街を埋めた。師直以下の在京の大名はことごとく勢多まで出迎える。東国の大名も、川越、高坂を始めとして大部分が送って上洛した。馬や武具がみごとだったので、本当に評判となった。その美を尽くし善を尽くすのももっともなことで、将軍の長男で、直義の政務に代わって天下の執政をするために上洛なさったのだから、ひときわ立派だった。
 その夜、将軍の屋敷に着かれると、院の御所から勧修寺大納言経顕卿を勅使として、左馬頭の上洛をお祝いなさる。同月二十六日、三条坊門高倉が直義朝臣の宿所に移られ、早速政務執行の指示があった。めでたいことである。


《義詮は、北畠顕家が南朝に加勢しようと上洛を目指し、鎌倉を通った時に十一歳の少年でした(巻第十九・八章)が、大軍を迎えながら家臣を束ねて決戦の覚悟をさせて、なかなかの力量を示していました。あの時は、衆寡敵せず、家臣とともに関東にちりぢりになったのでしたが、その後もずっと関東にいて、尊氏の世となってからは鎌倉で関東を治める役を与えられていたようです。
 あれから十二年のこの年貞和五年(一三四九)、今や二十三歳の若者になっていることになります。請われて上洛することになり、異母兄の直冬がひっそりと上洛したのに対して、こちらは威風堂々、周囲の期待を集めての入京です。》

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