「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

カテゴリ: 巻第二十八

 帝も熟考され、下座の諸卿も言葉を出さないまま、ややしばらくあったところに北畠准后禅閤が譬えを引いて、
「昔秦の世がいよいよ傾こうとした時に、沛公は沛郡から立ち上がり項羽は楚から立った。六国の諸侯の秦に背く者は、その両将に付き従ったので、共にその武威が次第に強くなって、沛公の兵十万余騎が漢の濮陽の東に出兵し、項羽の軍勢は四十万騎が定陶を攻めて雍丘の西に来た。沛公と項羽はお互いに昔の楚王の末裔の孫心という、民間に下って羊を飼っていた人を取り立てて義帝と呼び、その御前で、先に咸陽に入って秦を滅ぼした者が必ず天下の王となると約束して、東西に分かれて攻め上った。
 こうして項羽がいよいよ鉅鹿に着いた時、秦の左将軍章邯が百万騎で待ち構えていたので、項羽自ら二十万騎で川を渡って後、船を沈め鍋釜を壊し兵舎を焼いた。これは、敵が大軍で味方が少数だから、一人も生きては帰らないと心を一つにして戦わなければ、千に一つも勝てないだろうと思ったので、覚悟を決めた気持ちを兵達に知らせるためである。そこで、秦の将軍と九回出会い、百回戦った。たちまち秦の副将軍蘇角を討って王離を生け捕ったので、討たれた秦の兵は四十余万人、章邯は重ねて戦うことができず、ついに項羽に降伏して逆に秦を攻めた。項羽はまた新安城の戦いに打ち勝って首を切った敵二十万、すべて項羽の向かうところ破らないということがなく、攻める城は落とさないということがなかったけれども、行くところ毎に美女を愛し酒に溺れ財を奪い取り人を殺したので、道中で数ヶ月留まることがあって、まだ都へは攻め込まず、漢の元年十一月に函谷関に着いたのだった。
 沛公は小勢で、しかも道は難所を通ったのだが、民をいたわり人を治める心配りが深くて、財も奪わず人も殺さなかったので、防ぎ戦う城もなく、降伏しない敵もいない。道は開けてことが容易だったので、項羽に三ヶ月先だって咸陽宮に入ったのだった。しかし沛公は志が天下の平定にあったので、秦の宮室も焼かず、驪山の宝玉も奪わず、その上降伏した秦の子嬰を守って、天下の約束を実行するために、逆に函谷関に兵を遣って項羽を咸陽へ入れまいと関の戸を固く閉じたのだった。
 数ヶ月経って項羽が咸陽へ入ろうとすると沛公の兵が函谷関を閉じて項羽を入れない。項羽は大変怒って当陽君に十二万騎の兵を付けて、函谷関を打ち破って咸陽宮へ入ったのだった。すぐに降伏した子嬰皇帝を殺し申して、咸陽宮に火を懸けたところ、百五十㎞四方に造り並べた宮殿、楼閣は一つも残らず焼けて三ヶ月火が消えず、驪山の陵墓はたちまち灰燼となったのは悲しいことである。この陵墓は秦の始皇帝が崩御の時、はかないことにこの世の富貴を冥途まで身に着けていこうとお思いになって楼殿を立派に築き山川を作った。天には日月を金銀で三十mに作って懸け、地には川や海をかたどって水銀を六十㎞にわたって流した。人魚の油一万八千㎘を銀の油壺に入れて常に灯し掲げたので、石の壁で暗いと言っても青天白日のようだった。この中に高官以下役人一千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽部の舞姫三百人を、みな生きたまま陵墓の土に埋めて、苔の下で亡くなったのだった。初めて俑を作る人は子孫が絶えるだろうと文宣王が戒めたのも、今こそ思い知られる。始皇帝がこのように執着してさまざまの命令を残された陵墓であるので、さぞかしその妄執も残っているだろうに、項羽は情け容赦なくこれを掘り崩して、宮殿をことごとく焼き払ったので、墓地の宝玉がふたたびこの世に帰ってきたのはあわれなことである。この時項羽の兵は四十万騎、新豊の鴻門にあった。沛公の兵十万騎は咸陽の覇上にあった。その間五十㎞、沛公と項羽はまだ出会っていない。
 この時范増という項羽の老臣が項羽に説いて、
『沛公は沛郡にいた時その振る舞いを見たところ、財を奪い取り美女を愛する心は世の常を越えていた。今咸陽に入って後、財も奪い取らず美女も愛さない。これはその志が天下に向いている者である。私が人を遣ってひそかにあの陣中の様子を見るに、旗の紋に竜虎を描いている。これは天子の気概を示している。速やかに沛公を討たなければ、必ず天下は沛公によって奪われるだろう』と言ったところ、項羽はなるほどと聞きながら、自分の勢力が強大であることを頼りにして何ほどのことはないだろう思い侮っていた。こうしている頃、沛公の臣下にいた曹無傷という者がひそかに沛公のところに使いを遣って、沛公が天下の王になろうとしているということを告げた。項羽はこれを聞いて、こうなったら疑いはないと思い、四十万騎の兵に命じて夜が明けたならばただちに沛公の陣に攻め寄せ、一人も残らず討つべしと命じた。
 この時項羽の叔父で項伯という人が昔から張良と親しかったので、このことを告げ知らせて逃がしたいと思ったので、急いで沛公の陣へ行って張良を呼び出して『事の様子は急である。今夜急いで逃げて命だけは助かれ』と教えた。張良はもともと道義を重んじ節操に関わる時は命を塵よりも軽く考える者だったので、どうしてことが迫っている時に高祖を棄てて逃げることがあろうかというので、項伯の言ったことを沛公に伝えた。沛公は大いに驚いて、
『そもそも私の兵で項羽と戦ったら、運によっては勝てるか』とお尋ねになると、張良はしばらく考えて、
『漢の兵は十万騎、楚は四十万騎である。平野で戦ったら、勝つことはできない』と答えた。沛公は、
『それでは私は項伯を呼んで、兄弟の契りを結び、親戚となる約束をして、とりあえずことが穏やかになるように計らおう』と言って、項伯を陣幕の中にお呼びになって、まず大盃を差し出し挨拶をして、
『最初に私は項王と約束して、先に咸陽に入った者を王としようと言った。私は項王に先立って咸陽に入ること七十余日だったが、しかし約束によって私が王になることは考えなかった。函谷関に入って何も自分の物にしなかった。役人や人民を戸籍に記録し、国庫を閉じて項王がおいでになる日を待った。これは世間が知っていることである。兵を遣って函谷関を守らせたのは、まったく項王を防いだのではない。他の盗人の出入りと非常の場合に備えるためだった。願わくは、あなたはすぐに帰って、私が徳に背くことのないことを項王に語って、明日の戦いをお止め下さい。私は早速項王の陣に行って、みずから罪のないことを申し上げよう』と仰ると、項伯はすぐに承知して、馬に鞭打って帰った。項伯はすぐに項王の陣へ行って詳しく沛公が詫びていたことを話して、
『そもそも沛公が先に関中を破らなかったなら、項王は今咸陽に入って枕を高くし、安心して食事をすることができただろうか。今、天下の大功はすべて沛公にある。それなのにつまらぬ者の讒言を信じて功ある人を討つのは、大変道義に反する。沛公と交わりを深くして、功を重んじて天下を鎮めた方がよい』と理を尽くして話したところ、項羽がなるほどと感心して、顔色がすっかりよくなった。
しばらくすると、沛公が百余騎を従えて項王に会いに来た。すぐに挨拶して、
『私が項王と力を合わせて寝を攻めた時、項王は河北に戦い、私は河南で戦った。必ずや討たれるはずであった秦の手を逃れて楚の鴻門で再会できるとは、思いもしなかった。ところが、よこしまな者の讒言によって、私が項王と敵対することになるのは、何と悲しいことでありましょう』と頭を地に付けて仰ると、項羽は本当に気持ちが解けた様子で、
『それはあなたの左司馬曹無傷が知らせにきたことで、強くあなたを疑ったのだ。そうでなければ、どうして知ることがあろうか』と、すぐに当事者を明らかにして、まことに考えのない様子で思慮が足りないように見えた。
 項羽はしきりに沛公を引き留めて酒宴を開いた。項王と項伯は東に向かって座し、范増は南に向いた。沛公は北に向かって座し、張良は西に向かって坐った。范増はもともと沛公を討つのは今日でなければいつと期すことはできないと思っていたので、項羽を中に入れて沛公と刺し違えるために身に着けていた太刀を握って三度も目くばせしたけれども、項羽はその気持ちを悟らず、ただじっとしていた。范増はすぐに座を立って項荘を呼んで、
『私は項王のために沛公を討とうとするのだが、項王は愚かでこれに気付かない。そなたは早く席に帰って沛公に祝意を表せ。沛公が盃を傾けた時に、私とそなたとで剣を抜いて舞う真似をして沛公を座で殺そう。そうしなければそなたの一党が結局沛公に滅ぼされてしまうのは、一年を出ないだろう』と涙を流して言ったので、項荘は一言も異議を挟まず、すぐに席に帰って、みずから酌を持って沛公に祝意を表した。沛公が盃を傾ける時、項荘は、
『王が今沛公と酒を酌み交わしている。陣中のことで久しく楽を奏でることがなかった。私どもに剣を抜いて太平の曲を舞わせていただきたい』と言って、項荘は剣を抜いて立った。范増も一緒に剣をかざして沛公の前に立った。項伯は、彼らの様子を見て沛公を討たせまいと思ったので、
『私も一緒に舞おう』と言って、同じように剣を抜いて立つ。項荘が南に向かえば項伯は北に向かって立つ。范増が沛公に近づけば項伯は身を以て沛公を隠す。これによって楽がすでに終わろうとするまで沛公を討つことができなかった。
 少し間が空いた時に張良が門前に走り出て、誰かいないかとみると、樊噲がつっと走り寄って、
『座中の様子はどうか』と訊ねるので、張良が、
『たいへん差し迫っている。今、項荘が剣を抜いて舞っている。その意図は沛公にある』と答えると、樊噲が、
『これは喉元まで迫っているな。すぐに入って沛公と一緒に死んだ方がよい』と言って、兜の緒を締め、鉄の楯を脇にして陣門に入ろうとする。門の左右に矛を交えた衛士五百余人が矛を構え太刀を抜いてこれを入れまいとする。樊噲は大いに怒って、その楯を身に引き寄せて門の閂を七、八本押し折って中へさっと走り込むと倒れた扉に打ち倒され鉄の楯に突き倒されて、矛を構えた衛士五百人が地面に倒れて皆起き上がれない。樊噲はとうとう陣中に入って幔幕を揚げて眼を怒らせ、項王をはたと睨んで立ったところ、頭の髪は天に上がり兜の鉢を貫いて、獅子の逆立った毛のように巻いて百千万の星となった。まなじりはつり上がって裂け、その眼光は磨き上げた鏡に血を注いだようであり、その背丈は二百七十センチあって怒った鬼鬚は左右に分かれて、鎧を揺すり上げて立った姿は、いかなる悪鬼、羅刹もこれ以上ではないだろうと見えた。項王がこれをご覧になって、自ら剣を抜き膝を突いて、
『お前は何者か』とお尋ねになると、張良が、
『沛公の兵で樊噲という者です』と答えた。項羽はその時に座り直して、
『これは天下の勇士だ。この者に酒を与えよう』と言って、十八ℓ入る盃を持ってこさせて樊噲の前に置いて、七頭分の豚の肩の肉を肴に取り出された。樊噲は楯を地に伏せて豚の肩を切って少しも残さず食べて、盃に酒をなみなみと受けて三度傾け、盃を置いて、
『そもそも秦王は残虐な心があって、人を殺し民を苦しめることが止む時がなかった。天下はそれによって秦に背かない者がいなかった。そこで沛公と項王と一緒に兵を挙げ、非道の秦を滅ぼして天下を救おうと義帝の御前で血をすすって同盟を結んだ時、先に秦を破って咸陽に入った者を王としようと言った。しかし今、沛公は項王に先立って咸陽に入ること数ヶ月、それでも何も自分の物にしていない。宮室を閉じて項王のおいでになるのを待っているが、それは沛公の誠意ではないか。兵を遣って函谷関を守らせたのは、他の盗賊の出入りと非常とに備えるためだった。その功績の大きいことはこのようである。まだ領地を与えられる恩賞がなく、それどころか功績をあげた者を処罰しようとしている。これでは滅んだ秦の悪行を受け継いで、みずから天の罰を招く者ことになる』と、少しも遠慮せず項王をにらみつけて言ったところ、項王は答える言葉がなく、ただうなだれて赤面した。
 樊噲はこのように思う事を存分に言って、張良の下座に着き、しばらくして沛公は手洗いに行く振りをして樊噲を呼んでお出になる。ひそかに樊噲に向かって、
『さっき項荘が剣を抜いて舞った狙いは、ひとえに私を討とうと考えたのだ。座に着いたまま久しく帰らないのは危険だと思われる。ここから急いで私の陣へ帰ろうと思うが、挨拶をしないで出てしまうのは、礼儀に反する。どうしたらよいか』と仰ると、樊噲が、
『大事を行うのに小さな慎み問題ではない。大きな礼節は必ずしも辞譲を意味しない。今のままでは、相手は俎で、こちらは魚か肉だ。どうして挨拶が必要なものか』と言って、一対の白い玉と玉石の盃一組を張良に与えて留め置き、驪山の麓から脇道を通って駿馬に鞭打ち進むと靳強、紀信、樊噲、夏侯嬰の四人が自ら楯を脇挟み矛を手にして馬の前後に従う。その道三十㎞、険しい山を越え道のない谷を渡って一時間の内に覇上の陣に行き着いた。初め沛公に従っていた百余騎の兵達はまだ項王の陣の前に並んでおり、張良はまだ鴻門にいたので、人は皆沛公が帰ったのを知らない。しばらくして張良が座に帰って挨拶をして、
『沛公は酔って杯を交わすに堪えず、退出なさいましたが、私に、謹んであなた様にこれを献ぜよと言い置きました』と言って、まず一対の白い宝玉を押し戴き深く礼をして項王の前に置いた。項王は白い宝玉を受け取って、
『まことにみごとな宝玉だ』と喜んで席に置き、大切に扱った。その後張良はまた宝玉の盃一組を押し戴いて范増の前に置いた。范増は大いに怒って、盃を地に投げつけ毛を抜いて突き砕き、項王をはったと睨んで、
『ええい若僧、ともに企てを語るに足らない。項王の天下を奪う者は必ず沛公だろう。いたしかたない、我々の仲間はこの者の虜となるだろう。宝玉は宝物ではあるが、どうして天下と取り替えられようか』と怒る眼に涙を流して一時間ほども立ち尽くした。項王はなおも范増の気持ちを理解せず、大変に酔って帳の中にお入りになったので、張良は百余騎を従えて覇上に帰った。沛公の陣の門に着いて、項王に寝返った曹無傷を斬って、首を軍門に懸けられた。こういうことがあった後は、沛公と項王は互いに会うことは無かった。天下はひたすら項王の差配するところとなって、懲罰が明らかでなかったので、諸侯万民は皆ともに沛公の功績が表に現れず天下の主でないことを悲しんだ。
 その後項羽と沛公とで天下を争う空気がいよいよ明らかになって、諸国の兵が二つのどちらかにしたがったので、漢と楚の二つに分かれて、天下の争乱は止むことがなかった。
 沛公を漢の高祖と呼ぶ。その陣営に属する者は、韓信、彭越、蕭何、曹参、陳平、張良、樊噲、周勃、黥歩、廬綰、張耳、王陵、劉賈、酈商、灌嬰、夏侯嬰、傅寛、靳強、呉芮、酈食其、董公、紀信、轅生、周苛、侯公、随何、陸賈、魏無知、叔孫通、呂巨、呂青、呂安、呂禄以下の呂氏三百余人、都合その数三十万騎、高祖の方に付いた。楚の項羽は、もともと代々将軍の家だったので、従う兵は八千人いた。その他、今回馳せ参じたのは、櫟陽の長史欣、都尉董翳、塞王司馬欣、魏王豹、瑕丘の申陽、漢王成、趙の司馬卬、趙王歇、常山王張耳、義帝柱国共敖、遼東の韓広、燕の将臧茶、田市、田都、田安、田栄、成安君の陳余、番君将梅鋗、雍王章邯、これは河北の戦いに敗れて後三十万騎の軍勢で項王に下って従ったので、項氏十七人、諸侯五十三人、合計その数三百八十六万騎が項王の軍に加わった。韓の二年、項王は城陽に着いて高祖の兵田栄と戦う。田栄の軍が敗れて降伏して来ると、その老若婦女に至るまで二十万人を土の穴に入れて埋めてこれを殺した。漢王はまた五十六万人を率いて彭城に入った。項羽は自ら精鋭三万人を率いて胡陵で戦う。高祖はまた負けたので、楚はすぐに漢の兵十余万人を生け捕って、睢河の淵に沈めた。睢河はこのために流れが止まった。高祖は二度戦いに負けて霊壁の東に来た時、その軍勢はわずかに三百余騎であった。項王の兵三百万騎が漢王を三重に囲み、漢王は逃れる手立てもなかったところに、急に風が吹き雨が荒く、真昼が夜よりも暗くなったので、高祖は数十騎と共に敵の囲みを出て、豊沛へお逃げになった。これを追って沛郡へ押し寄せたので、高祖の兵達はここかしこで防いで討ち死にする者二十余人、沛郡の戦いにもまた漢王はお負けになったので、高祖の父大公は楚の兵に捕らえられて項王の前に引き出された。漢王はまた周の呂侯と蕭何の兵を合わせて二十余万騎で滎陽に来た。項王は勝ちに乗じて、八十万騎で彭城から押し寄せて戦う。この時漢の戦いはわずかに優勢だったけれども、項王は全くものともしない。漢と楚は互いに勢いを振るって、まだ重ねて戦わずに、ともに広武に陣を張って川を隔てていた。
 ある時項王の陣に高い俎を作ってその上に漢王の父大公を置いて、高祖に、
『これは沛公の父ではないか、沛公が今首を差しだして楚に降伏するなら、大公とそなたの命を助けよう。沛公がもし降伏しないならば、ただちに父を煮殺すだろう』と言った。漢王はこれを聞いて、大いにあざ笑って、
『私は項羽とともに臣下として懐王から命令を受けた時に、兄弟であろうと誓った。だから私の父はすなわちそなたの父である。今、それでも父を煮殺すならば、喜んで一杯の羹を分けてもらおう』と嘲ったところ、項王は大いに怒ってすぐに大公を殺そうとしたが、項伯が固く諫めたので、
『それなら暫くは』と言って大公を殺すことを止めたのだった。
 漢と楚が長く相対してまだ勝負が付かない。若者は軍役に苦しみ、老弱は兵糧の運送に疲れた。ある時項羽は自ら甲冑を着け、矛を取って、一日に千里を走る騅という馬に乗ってただ一騎、河の向かいの岸に出て、
『天下の兵達が戦いに苦しむことすでに八ヶ年、これは私と沛公とただ二人のためである。いたずらに天下の人民を苦しめるよりは、私と沛公と一騎打ちで勝負を決しよう』と呼んで、敵陣を睨んで立ったのだった。
 そこで漢皇は自ら帷幕の中から出て項王を非難して、
『そもそも項王が自ら正義なく天罰を受けている罪は一つではない。初め項羽と共に命令を懐王から受けた時、さきに関中を鎮めた者を王としようと言った。ところが項羽はすぐに約束に背いて、私を蜀漢の領主にした。その罪の一つである。宋義が懐王の命を受けて卿子冠軍となった時に項羽はその帷幕に乱入して卿子冠軍の首を切って、懐王が自分にこれを命じて討たせたと偽りの触れを軍中に出した。その罪の第二である。項羽は趙を救う戦いで勝利した時、逆に懐王に報告せず、関中の兵を追い払って自ら関中に入った。その罪の第三である。懐王は固く命令を出して、秦に入ったならば民を殺し財を奪ってはならないとした。項羽は数ヶ月遅れて秦に入った後、秦の宮室を焼き、驪山の塚を掘ってその宝玉を自分の物にした。その罪の第四である。また降伏した秦王子嬰を殺して天下に威を振るった。その罪の第五である。騙して秦の若者を新安城の穴に埋めて殺したこと二十万人、その罪の第六である。項羽のみよい土地に王となり、もとの領主を誅殺した。反逆はこのことから起こっている。その罪の第七である。懐王を彭城に移して韓王の地を奪い、梁と楚に合わせて王となり自ら天下を支配した。その罪の第八である。項羽は人に命じてひそかに懐王を江南で殺した。その罪の第九である。この罪は天下の指摘するところで、口にはしないが、皆がわかり合っていることである。大逆無道の甚だしいことは、天がどうしてそなたを戒めの刑に処せないことがあろうか。どうして煩わしく項羽と一人で戦うようなことをしようか。そなたの力は山を突き抜くとしても、私の道義が天に叶っていることには及ぶまい。それならば、犯罪人に武器を棄てさせ、棒と鞭によって項羽を撃ち殺させよう』と嘲って、百万の兵が箙を叩いてどっと笑った。
 項羽は大いに怒って自ら強い弓を引いて漢王を射る。その矢は川の上四百mあまりを射越して漢王の前に控えていた兵の鎧の草摺から引敷の板の裏を貫き高祖の鎧の胸板に口巻まで深々と立ったのだった。漢の兵の楼煩は、強弓を矢継ぎ早に射て馬での射の名人だったが、漢王の返し矢を射ようと、矢の射程距離を越えて駆け出たのだったが、項羽がみずから矛を持って立ち向かい、眼を怒らせて大音声を上げ、
『そなたはいかなる者故に私に向かって弓を引こうというのか』と怒って、はったと睨む。その勢いに圧倒されて、さしもの楼煩も的にする物を見ることができず、弓が引けず、人馬もろとも震え上がって漢王の陣へ逃げこんだ。漢王は傷を受けて治るのを待つ間にその兵が皆戦意を失ったので、戦う毎に楚は勝ちの勢いに乗らないということがない。これはみな范増の作戦から出たことで、漢王は常に囲まれたので、陳平、張良らはなんとかしてこの范増を討とうと考えた。ある時項王の使者が漢王のところに来た。陳平はこれと会って、まず酒を勧めようとした時に大変なご馳走を用意して山海の珍味を尽くし、酒を泉のように用意して砂金を二十四t、宝玉、梁羅錦繍などの財物を山のように積み上げて引き出物としておいたのだった。陳平が語る言葉ごとに使者は一向に合点がいかず、黙ったまま返事をしなかった時に、陳平が驚いて見せて、
『私はあなたを范増の使いだと思って秘密の話をする。今項王の使いだと知って、悔いても仕方がない。これは命令を伝えた者の間違いだ』と言って、さまざまに積んでおいた引き出物を皆取り返し、ご馳走の準備を片付けて、逆に飢えている人の口でもいやになるような粗末な食べ物を出した。使者は帰ってこの事を項王に話した。項王はこの時から、范増が漢王と密議を謀って裏切ろうとしていると疑って、范増の権限を奪って、処罰しようと考えた。范増はこれを聞いて、
『天下のことは大方落ち着いた。君王は自分でお治めください。私はすでに八十歳、生きているうちに王が滅びるのを見るのは悲しい。願わくは、私の首を刎ねて街中に曝されるか、そうでなければ鴆毒をいただいて早く死にたい』と願ったところ、項王はますます怒って鴆毒を飲ませられた。范増は鴆毒を飲んで後、まだ三日経たないうちに血を吐いて死んだのだった。
 楚と漢と戦ってすでに八ヶ年、みずから戦うこと七十余度に及ぶまで、天下が楚を離反したけれども項羽がその度に勝ったのは、ただ楚の兵が勇ましかっただけではなくて、范増が謀を練り、民を大事にし、兵を勇み立たせ敵の考えを見抜き、疲れた兵をいたわり、政治による徳化を図り、人の心をまとめたことによる。だから范増が死を賜った後は、諸侯はことごとく楚を背いて、漢に従った者が多かった。漢楚ともに滎陽の東に至り、久しく対決した時に、漢は兵が勢い盛んで食料は多く、楚は兵が疲れ食が絶えた。
この時、漢の陸賈を楚に遣わして、
『今日から後は天下を二分して、鴻溝から西を漢とし、東を楚としよう』と和睦を願い出られると、項王はお喜びになって、固くその約束をなさった。そこで生け捕って戦いに不利な時はこれを煮殺そうとした漢王の父大公を赦して漢へお送りになった。軍勢は皆万歳を叫んだ。こうして楚は東へ帰り、漢は西へ帰ろうとした時、陳平、張良が一緒に漢王に、
『漢は今天下の大半を保有し、諸侯は皆付き従っている。楚は兵は疲れ食が尽きている。これは天が楚を滅ぼそうとしている時だ。この時討たなければ、まったく虎を養って自分で憂いを残すことになるでしょう』と言った。漢王はこの忠告に従って、すぐに諸侯と手を結んで三百万騎の軍勢で項王を追いかけなさる。項王はわずかに十万騎の軍勢で固陵に引き返して漢と戦った。漢の兵四十万余人が討たれて引き退く。これを聞いて韓信は斉国の兵三十万騎を率いて寿春から回って楚と戦う。彭越、彭城の兵二十万騎を率いて、城父を経て楚の陣へ攻め寄せ、敵の行く手を遮って陣を張る。大司馬周殷が九江の兵十万騎を率いて楚の陣へ押し寄せ、川を隔てて取り囲む。東西南北すべて百重千重に取り巻いたので、項羽は逃げるべき手立てがなく、垓下の城に籠もられた。漢の兵はこれを数百重に取り囲み、四方が皆楚の歌を歌うのを聞いて項羽は今夜が最後と思いになったので、美人虞氏に向かって涙を流し詩を作って悲しみ嘆かれた。虞氏は悲しみに耐えず、剣をいただいて自らその刃に貫かれて倒れたので、項羽はもはやこの世に気がかりなことはないと喜んで、夜が明けると生き残っていた兵二十八騎を連れてまず四方を囲んでいた漢の兵百万余騎を駆け破り、烏江という川の畔にお出になって、みずから涙を抑えてその兵に向かって、
『私が兵を起こして以来、八ヶ年の戦いに、自分で向かった七十余戦で、戦ったところは必ず破り、撃った相手は皆降伏した。まだ最初から一度も敗北せず、ついに覇者となって天下を支配した。しかし今勢いが尽き力が衰えて漢のために滅ぼされるのは、まったく戦いのせいではなくただ天が私を滅ぼすのだ。だから今日の戦いで私はかならず気持ちよく三度戦いに勝って、しかも漢の大将の首を取り、その旗を退けて、私が言ったことが間違いでないことをそなた達に見せてやろう』と言って、二十八騎を四隊に分け、漢の兵が百万騎を四つに分けて対陣していると、まず一番に漢の将軍淮陰侯が三十万騎で押し寄せた。項羽は二十八騎を後ろにして、真っ先に駆け入って、みずから敵三百余騎を斬って落とし、漢の大将の首を取って切っ先に貫き、元の陣へ駆け戻って、山を東にしてご覧になると、二十八騎の兵は八騎が討たれて二十騎になっていた。その残った兵を三ヶ所に待機させて近づく敵を待っていると、孔将軍が二十万騎、費将軍が五十万騎で東西から押し寄せた。項王はまた大いに叫んで山東から駆け下り、両陣の敵を四方八方へ追い散らし、逃げる敵五百余人を斬って落とし、また大将都尉の首を取り、左の手に引っさげて元の陣に駆け帰り、その兵をご覧になると、わずか七騎になっていた。項羽自ら漢の大将軍三人の首を切っ先に貫いて差し上げ、七騎の兵に向かって、
『どうだ、お前たち、私の言葉どおりだろう』と問われると、兵は皆舌を巻いて、
『まことに大王のお言葉のとおり』と感心した。項羽はすでに五十余ヶ所の傷を受けていたので、
『もはやこれまでだ。いざ自害しよう』と言って、烏江のほとりにお出になる。この時烏江の駅長という者が舟を一艘漕ぎ寄せて、
『この川の向こうは、項王の御手に従ってあちこちの合戦で討ち死にした兵達の故郷です。土地は狭いと言っても住民は数十万いる。この舟より他に渡すことのできる浅瀬もなく、また橋もない。漢の兵が来ても、渡ることはできない。願わくは、大王、急いで渡って命を保ち、再び大軍を動かして、天下をもう一度覆してください』と言ったところ、項王は大いに笑って、
『天が私を滅ぼすのだ。私はどうして渡ったりしようか。私は昔江東の若者八千人とこの川を渡って秦を倒し、ついに天下を征服したが恩賞が兵に及ばないところに、また高祖と戦うこと八ヶ年、今その若者は一人も帰ることなく、私一人が江東に帰ったならば、たとえ江東の親たちが私を哀れんで私を王としても、私は何の面目があってこの人たちに会うことがで着ようか。彼らがたとえ何も言わなくても、私は一人心に恥じないでいられようか』と言って、とうとう川を渡られなかった。しかし、駅長の志に感心して、騅という一日に千里走る馬を、今までお乗りになっていたのを下りて、駅長にお与えになった。
 その後徒歩になってただ三人で仁王立ちに立っておられるところに赤泉侯を騎将として二万余騎が真っ先に進んで項王を生け捕ろうと駆けて近づく。項王は眼を怒らせて声を上げて、
『その方は何者だからと私を討とうと近づくのか』と怒って立ち向かわれると、さしもの赤泉侯も、その人ならともかく、心の分からぬはずの馬も震え上がって小膝を突いて倒れた。その時漢の司馬呂馬童が遠くで備えていたのを項王が手を揚げて呼んで、
『そなたは私の年来の友人だ。私は漢が私の首に千金の恩賞と万戸の村を賭けていると聞いている。私は今そなたのために首を与えて、交友の恩に報いようと思う』と言う。呂馬童は涙を流して、どうしても項羽を討とうとしない。項羽は、
『よし、それなら自分で自分の首を切ってそなたに与えよう』と言って、自ら剣を抜いて自分の首を掻き落とし、左の手で差し上げて立ったままお亡くなりになった。
 項王がついに滅んで、漢の七百年の王朝を保ったのは、陳平と張良の謀によって、偽って和睦したからである。
 その知謀は今にも当てはまる。だから、ただ直義入道が言うとおりにしてまずは同盟を結んだならば、かならず君を御位にお即けして天子の政治を国に施されるだろう。帝の徳は天下に広まり兵達が皆帰服したならば、その権威はすぐに広まって、逆臣らを滅ぼすのに何の問題がありましょうか」と、折りにあった学識と思われて、言葉巧みに申されたので、諸卿はなるほどと賛同して、すぐに勅免の宣旨を下された。
  勅命を受けて言う、故きを温ね新しきを知るのは、優れた人の行うところである。乱
  を収めて正道に復するのは、良将の率先して行うところである。ところが元弘の昔の
  功績を忘れず、天皇の命令に従う。帝は大いに喜ばれ、最も褒賞に値する。早く正義
  の兵を起こして、天下を鎮める策を講ずるべきである。帝の仰せはこのようである。
  以上、申し伝える。
    天正五年十二月十三日            左京権大夫正雄が承る
   謹上 足利左兵衛督入道殿
と書かれてあった。これがまさしく君臣の長い不和の原因であり、兄弟がたちまち背を向け合う初めと思われて、あきれた世の中である。


《一体何の話をするために漢楚の興亡を語っているのか、分からないままに読み終えてみると、要するに直義と和睦するのがいい、ということを、張良と陳平の策を借りて話したかったのでした。しかし、尊氏との交渉なら和睦とも言えますが、ここの直義の場合は尾羽を打ち枯らして降伏すると言って来ているのですから、漢と楚が和睦するというのとは訳が違います。例によって、牽強付会というか、単なる間違いの例話というか、この北畠准后禅閤の話で議論が一件落着となったというのなら、一同がこの話の長さに圧倒されて途中から何の議論をしていたのか分からなくなったからか、あるいはくたびれてお任せしますという気分になったか、といったところではないかなどと言ったら、叱られるでしょうか。
 ともあれ、直義は南朝に受け入れられることになりました。しかしそれは幕府に敵対するということでもあります。巻を改めて、その話になっていきます。》

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 左兵衛督入道は都を仁木、細川、高家の一族達に背かれて当てもなく出て行った。大和、河内、和泉、紀伊国は皆吉野の帝の命に服して、今更武家に従うだろうとも思えなかったので、沖にも着かず磯からも離れたような気がして、行く先を失ってしまった。越智伊賀守は、
「これでは何とも難儀なことだと思われます。いっそ吉野殿のところにおいでになって、過去の過ちを改めて、今後の道を開く方策をお考えになるべきだと思います」と申したところ、
「なるほど、それはそうだ」ということで、早速特別の使者を送って、吉野朝に、
  元弘の初め、先帝が逆臣のために皇居を西海に移されてお心を傷められました時に、
  勅命に応じて道義の兵を起こした者たちは多くありましたが、ある者は敵に囲まれ、
  あるいは戦に負けて気力を失い、志を失いましたが、私はかりにも尊氏に勧めて上洛
  を図り、勅に応じて戦いを挑み、天下を帝の世に落ち着けましたことは、帝のお心に
  喜びを残されていることと思います。
  その後義貞らの讒言によって罪なくして帝のお怒りを受ける身となり、君と家臣が意
  味もなく遠く離ればなれになりました。一門の皆が朝敵の名を残すのは、嘆いても余
  りあるところです。私の罪はまことに重いといっても、帝のご恩で過去をお咎めにな
  らないのなら、そして罪を深謝してその罪をお許し下さるなら、すぐにお許しのお言
  葉をいただき天下の大乱を鎮め、帝の世の安泰を願う所存です。
  この旨、内々に御意をいただき、奏上させていただきます。謹んで申し上げます。
     十二月九日                      沙弥慧源
    進上 四条大納言殿
と詳しい書状を奉って、降参の意を申された。
 早速諸卿が参内して、このことをどうされるべきかと協議がなされたところ、まず洞院左大臣実世が、
「直義入道が言うところは、大変な偽りがある。代々足利に仕えてきた師直、師泰のために都を追い出され、身の置き所がないので、仮に帝の権威を借りて自分の念願を果たすために、帝のお耳に入れるものだ。二十余年の間帝を初めとし申し上げて、あらゆる役人達は誰もが都の御所を思い、空しく飛ぶ鳥が翼を切られたような思いをしたのは、全て直義入道の悪行によるものではないか。ところが今、幸いにも降参することを願い出ている。これは天の与えたことである。この機会に乗じてこれを処罰しなければ、後の禍で臍を嚙むことがあっても、益はないだろう。すみやかに討手を差し遣わして、首を皇居の門前に曝すべきだと思います」と申された。
 次に、二条関白左大臣殿が、しばらく思案して、
「張良の『三略』の言葉に『恩恵を与えれば人々の力は日々新たであって、戦う時には風が起こるように自然に力が出る』と言っている。そもそも、自分の罪を謝る者が忠義貞節を尽くすのは、かえって二心がないからである。だから、章邯が楚に降伏して秦がすぐに敗れ、管仲は罪を許して斉はすぐに治まったのが、今の大きな指針となるだろう。直義入道がこちらに来るならば、帝が長く天下を治められることが、ここから始まるだろう。元弘の昔の功績を決して忘れず、官職に戻して召し使われる以外のことは考えられないと存じます」と、異なった意見を申された。
 主だった二人の異なる意見は、それぞれ得るところ失うところがある。是非を区別しがたい。


《章のタイトルにあるとおりですが、何と、直義は南朝に保護を求めたのでした。直義の言うように、元弘の戦いから建武の親政に至るまでは、尊氏を支えて後醍醐帝に大きな貢献をしたと言えますが、その後は兵部卿宮の殺害から始まって、後醍醐帝に反旗を翻して戦い続け、南北朝となって足利が幕府として動き始めて以後は、何と言っても将軍の弟というだけでも№2だったわけですが、それ以上に、本書にはあまり語られませんが、諸研究によればある時期までは幕府を実質的に動かしていたのはこの人だったようで、南朝から見れば、自分たちを追いつめてきた張本人ということになります。
 ですから、実世の意見は、まったく当然のものと言えます。ただこの人は、脇屋義助が美濃からやって来た時も、敗残兵扱いの厳しい意見を述べて四条隆資の反論にあっています(巻第二十二・二章)ので、いささか硬直した考え方の人のようではあります。直義の南朝にとっての利用価値は小さくはないでしょう。
 その点を二条関白が述べます。作者の大好きなディベートです。
 そして三人目は北畠親房の論で、それによって判定が下されますが、これがまた、この場にいる人誰もが知っているであろう、『史記』の項羽と沛公の物語を延々と、『集成』にして二十五頁にわたって語るということになりますので、次はそれを一括して掲載します。話の要点は最後の十行ほどです。》

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 左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下ろうとした時に、ひそかに殺し申そうとする企てが樽と伝えられたので、その死を逃れるためにひそかに大和国へ逃げて、越智伊賀守を頼られたところ、近辺の村人が心を合わせて力添えして、道々を切り塞いであちこちに関所を作って、全く二心がないように見えた。その後一日して石塔右馬助頼房以下、少々志のある昔なじみの人々が馳せ参じたので、もはや隠れようのない様子だった。その噂は都でも田舎でもさまざまだった。
どうしても天子のご意思でなければなくては、個人的な狙いが達しがたいということで、まず京都へ人を上らせて、院宣をお願い申されたところ、問題なく早速に宣下され、それどころか希望もしないのに鎮守府将軍に任ぜられた。その言葉には、つぎのようにあった。
  院宣をいただいて言う、斑鳩宮が守屋を処罰し、朱雀院が将門を討った、これは悪を
  棄て善を守る天子のお考えである。ここに無法の者を征伐し父と叔父、二人の無念を
  慰めたいと思うことに院は深く感心しておられる。よって鎮守府将軍に任じ、左兵衛
  督に任ずることにする。早速九州と二島ならびに畿内、七道の軍勢を率いて上洛を計
  画し、天下を守護せよ。
  かくて院宣によっての仰せは以上のようである。
    観応元年十月二十五日           権中納言 国俊承る
   足利左兵衛督殿


《分かりにくい章です。
 まず、「近辺の村人が…関所を作って」は、幕府方に付いて直義の入国を阻んだようにも読めそうですが、そうではなく逆にそのようにして左兵衛督を守ってくれた、ということのようです。
 「噂は…さまざまだった」というのは、さまざまに(尾ひれが付いて?)広がった、ということでしょうか。
 そうだとすると、「個人的な狙い(原文は、「私の本意」)」は、直義の「本意」で、彼はまだ高一家の排斥の目論見を失ってはいなかったようです。そこでその追討の院宣をもらおうと、光厳院に使いを遣ったのでした。
 すると、院も高一家の奢りを快く思っておられなかったようで、「問題なく、早速に」その願いを聞き届けられました。
 もっとも、この院宣は直義(左兵衛督)宛てではなくて、直冬(右兵衛佐)に与えられたものという説が有力なようで、宛名を直義にしたのは『太平記』の誤りなのかも知れないと『集成』が言います。これを直義宛とすると、「父と叔父」の該当者が分かりにくく、直冬なら尊氏と直義で明快です。また同書は、すでに左兵衛督であった直義を、ここで改めて同じ職に任じたというのも変だと言って、何か「混同を犯した」か、「この院宣は物語が作り出したものかも知れない」としています。
 また、石塔右馬助頼房は、前章で、直義と一緒に京から脱出したはずですから、ここで「馳せ参じた」というのは変です。『集成』は、前章の方が間違いかとして、別の人の名を挙げています。
 さて、直義はこの後、驚くべき行動に出ます。》

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 将軍がいよいよ明日西国へ発たれると伝えられたその夜、左兵衛督入道慧源は、石塔右馬助頼房だけを連れて、どこへとも知れずお逃げになったのだった。これを聞いて世の中の心配する人は、「さあ、天下の乱が起こるぞ。高家一族は今に滅びるだろう」とささやいた。ことの事情の分からないそちら方の人々の女性達は、「何とあきれたこと、この世の中はどうなるのだろう。お供に着いて行った人もいない。御馬も皆厩に繋がれている。徒歩で裸足では、どこへも一歩もお逃げになれないだろう。これは全部武蔵守の謀で、今夜こっそり殺してしまうのだろう」と、声も惜しまず泣き悲しむ。
仁木、細川の人々も、執事の館に急ぎ集まって、
「錦小路殿がお逃げになりましたことは、後の禍が遠くないと思われますので、しばらく都にお留まりになって、居場所をよくお調べになるのがよいでしょう」と申されたところ、師直は、
「何と大袈裟なことだ。たとえ吉野、十津川の奥、鬼界が島や高麗の方へお逃げになったとしても、私が生きている間は、だれがその人の味方になろうか。首を獄門の木に曝し、屍を卑しい者の鏃に懸けられることは、三日以内であろう。その上、将軍のご出発のことは、すでに諸国へ日を示して触れて遣ってある。約束が違えば、面倒なことが多くなる。少しも留まるべきではない」と言って、十月十三日の早朝に、師直はとうとう都を発って、将軍を先にお立てして、道中の軍勢を引きつれて、十一月十九日に備前の福岡にお着きになる。ここで中国四国の軍勢を待ったけれども、海上は波風が荒れて船も通わず、山陰道は雪が降り積もって馬も歩けなかったので、馳せ参じる兵は多くない。それでは年が明けてから九州へ向かおうということで将軍は備前の福岡でむなしく日を送られたのだった。


《零落蟄居の直義でしたが、なおまだ身の危険を感じるようなことがあったということでしょうか。あるいは、なお復帰を期して反転攻勢の機会を求めたということでしょうか。将軍出立の前夜とはいいタイミングを狙ったものです。
 師直の言葉は、自信満々ですが、こういう判断はえてして慢心となって、逆の結果をもたらすもののように思います。これは凋落の兆しなのではないか、備前福岡での意に添わない足止めは、その兆しの顕現ではないか、…。
ところで、直義逃亡についての世の人々の噂話はいつの話なのでしょうか。このまま読むと、その晩の話のように読めますが、そうすると、少なくとも身内には事が事前に漏れていたことになります。まさかそんなことはないでしょう。しかし「今夜」という言葉がある以上、そういうことになりそうですが、…。少なくとも、「世の心配する人」の言葉と、「そちら方の人々の女性達」の言葉の時系列は順序が逆でしょう。》

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 中国地方はおおむね治まっているようだけれども、九州がまた蜂起したので九月二十九日、肥後国から都へ早馬で、
「兵衛佐直冬が先月十三日当国に到着され、川尻肥後守幸俊の館に住まわれたところに、宅磨当太郎守直が加勢して国中で兵を集めたので、幕府方に味方する者たちがあったけれども、その攻撃に堪えられなくて、従わない者がいない。そうしている間に川尻の軍勢は雲霞の如くになって、宇都宮三河守の城を囲むと、一日一夜合戦して、討たれる者百余人、傷を受けた兵は数が知れない。ついに三河守は城を攻め落とされ、いまだ生死が知れない。宅磨と川尻はますます大軍になって鹿子木大炊助を取り囲んだので、後ろを攻めるために少弐の代官宗利が近国に挙兵を促したが、九州と壱岐、対馬の兵達は大方が兵衛佐殿に味方していたので、求めに応じる者は多くない。事はすでに難しくなってきた。急いで軍勢を派遣されたい」と言った。
 将軍はこの報告を聞いて、
「さて、誰を討手にやろうか」と執事武蔵守にお尋ねになったところ、師直が、
「遠国の乱を鎮めるためにはご一家の末流か、私などが行くべきですが、今回は何としても上様直々にお下りいただいて成敗なさらなくてはならないでしょう。なぜならば、九州の者たちが兵衛佐殿にお付きしたのは、ただ将軍の御子ですので、内々お心を通じていらっしゃる事があるだろうと考えるからです。世の人は、思いの他に直々に御成敗の合戦をなされば、誰もが、父子の確執に天の罰が下されると思うでしょう。将軍の御指揮で私が命を捨てて戦うならば、九州、中国の全てが敵に味方したとしても、何を恐れることがありましょうか。すぐに急いでお下り下さい」と強くお勧め申したので、将軍は一言も異論なく、都の警固には宰相中将義詮を残し置いて、十月十三日、征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿は、執事武蔵守師直をお連れになって、八千余騎を率いて兵衛佐直冬討伐のために、まず中国へとお急ぎになった。

《ついに直冬が九州で兵を起こしました。順調な滑り出しで、すでに一大勢力を作り上げているようです。
 報告を受けた尊氏は師直に相談、その師直の意見を「一言も異論なく(原文・一義にも及びたまはず)」に受け入れます。仮にも自分の息子を討つのに、それはないだろうという気がします。下克上が確定して、言いなりだということなのでしょうか。
 タイトルには「蜂起」とありますが、彼の動機や目的は、どこまで考えていたのでしょうか。直接は語られないのでよく分かりませんが、もちろん発端は父への不満なのでしょうが、父を倒すことまで考えていたのでしょうか。
 また、川尻や宅磨はどう考えていたのでしょうか。直冬への共感、加勢が主なのか、単に勢力拡大の看板に利用したに過ぎなかったのか、…。それぞれ、「肥後守」「別当」というそれなりの役職をもらっているのですから、特に反乱の旗を挙げなくてもいいような気がしますが、直冬への道義的、心情的な共感だけでこんなだいそれた企てをしたと考えるのも無理があるようにも思います。やはり、あわよくば天下を我が物に、という野心がベースなのでしょうか。
 ついに尊氏が腰上げました。フルネームで呼び挙げられて、威風堂々の出陣です。》

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