この度計略を立てて京都をお攻めになるためにまず住吉、天王寺へ行幸なさった時に、児島三郎入道志純も呼ばれて行っていたが、
「これは一大事であるので、急いで東国、北国へ下って、新田義貞の甥や子供に義兵を起こさせ、小山、宇都宮以下、味方になる大名を誘って、天下平定の大功を速やかに遂げるように、策略を図れ」と仰ったので、志純は夜を日に継いで関東へ下ったところ、東国の合戦はすでに事が終わって、新田義興、義治は川村の城に立て籠もり、武蔵守義宗は越後国にいたのだった。勅使は東国、北国に行って、
「帝はすでに大敵に囲まれなされて、助けの兵は力尽きている。もし高貴な方が卑しい者に囚われなされたならば、天下は誰のために争うのか」と、道義の重いことを言って命を賭けるべき習わしを語ったところ、小山五郎、宇都宮少将入道も、「帝の御仰せに従おう」と言って、東国を鎮める策を巡らすことを約束した。
義興、義治はなお東国に留まって将軍と戦い、新田武蔵守義宗、桃井播磨守直常、上杉民部大輔、𠮷良三郎満貞、石塔入道は、東山道、東海道、北陸道の軍勢を率いて二手に分かれて上洛し、八幡の背後を攻めて、朝敵を遠くへ追い払うようにと、諸将と打ち合わせて勅使を先頭にして都へ上った。
そして新田武蔵守義宗が、四月二十七日、越後の津張から出発して、七千余騎で越中の放生津に着くと、桃井播磨守直常が三千余騎で馳せ参ずる。合わせて一万余騎は五月十一日に前陣がすでに能登国へ向かって立つ。
𠮷良三郎、石塔も、四月二十七日駿河国を発って、道中の軍勢を集めて六千余騎を率いて、五月十一日に先陣がすでに美濃の垂井、赤坂に着いたので、八幡に加勢をしようと遠篝火を焚いた。
これだけでなく、信濃の下宮も、神家、滋野、友野、上杉、仁科、禰津以下の軍勢を呼び集めて、同じ日に信濃をお発ちになる。
伊予では土居、得能が兵船百余艘に乗って海上から攻め上る。
東山、北陸、四国、九州の官軍たちは、皆自国を出立したので、道中の遠近によって五日、三日の遅速はあるけれども、背後を攻める軍勢が近づいたと噂を立てたなら、八幡の寄せ手は皆退散するに違いなかったのだが、後四、五日を待ちきれないで、主上は八幡からお逃げになったので、諸国の官軍も力を落として、皆自分の本国へ引き返した。これもただ天運の時が至らず、神慮から起こったことだとはいうものの、何かと食い違う宮方の運のほどが思い知らされることである。
《後村上帝が八幡を立ち去った後に何事が起こったのかと思いながら読み進めると、なるほど、日付けを見れば、ずっと後返りをして話をしているのだ、と分かりました。
帝は、「住吉、天王寺」におられた時に、一度、由良新左衛門入道信阿を勅使にして、新田左兵衛佐義興に義兵を起こすように求められたことがあり、それを受けて義興が弟義宗、脇屋義治とともに挙兵したのが閏二月八日でした(一章)。そしてそれから二ヶ月後のこの頃、尊氏との戦いに敗れて義宗は越後へ逃げ、「新田義興、義治は川村の城に立て籠もり、武蔵守義宗は越後国にいた」のでした。児島志純が東国に着いたのはそういう状態の中で、つまり、彼は二人目の勅使ということになります。
それを受けて、義宗は、多分越後から、一万余騎の軍勢となって都へ向かい、駿河から石塔らが義興、義治と別れて、六千余騎(国府津に籠もった、全軍の数です・四章末)で向かいます。
と、簡単に言いますが、彼らは「八十万余騎」の尊氏勢に攻められて、いわば追いつめられ這々の体で逃げて行った格好だったように思います(四章)が、それにしては、この軍勢は大変な数で、「八十万余騎」の尊氏勢に睨まれている中で、よくぞ集められたものだという気がします。彼らが次々に上洛していくのを尊氏は知らなかったということでしょうか。
ともあれ、「義兵」は東西から続々と八幡に向かったのでしたが、わずか「四、五日」の差で、間に合いませんでした。しかし、はるばるやって上って来たこの「義兵」は、どうして賀名生へ帝を追って向かわなかったのでしょうか。義詮の足利勢は「三万余騎」(五章2節)だったのに対して、ここに集まった軍勢は、義宗と𠮷良らだけで一万六千余騎、その他それこそ北から西から集まって来たのは、雲霞のようではなかったかと思われるのですが、…。
関東は尊氏に圧倒され、八幡にせっかく集まった「義兵」も解散したのでは、もはや天下の趨勢は決したように思えるのですが、『集成』は、先の梗概を「関東の小手差原、鎌倉の戦い、それに京の周辺、八幡山の合戦にも、両軍ともにこれといった決め手のないまま世の中は混乱状態が続くのである」と、この巻を締めくくっています。
後醍醐帝の建武親政が崩れて、帝が比叡山から尊氏の軍門に下る形で還御されてから十六年になりますが、まだまだ天下は鎮まらないようです。》
「これは一大事であるので、急いで東国、北国へ下って、新田義貞の甥や子供に義兵を起こさせ、小山、宇都宮以下、味方になる大名を誘って、天下平定の大功を速やかに遂げるように、策略を図れ」と仰ったので、志純は夜を日に継いで関東へ下ったところ、東国の合戦はすでに事が終わって、新田義興、義治は川村の城に立て籠もり、武蔵守義宗は越後国にいたのだった。勅使は東国、北国に行って、
「帝はすでに大敵に囲まれなされて、助けの兵は力尽きている。もし高貴な方が卑しい者に囚われなされたならば、天下は誰のために争うのか」と、道義の重いことを言って命を賭けるべき習わしを語ったところ、小山五郎、宇都宮少将入道も、「帝の御仰せに従おう」と言って、東国を鎮める策を巡らすことを約束した。
義興、義治はなお東国に留まって将軍と戦い、新田武蔵守義宗、桃井播磨守直常、上杉民部大輔、𠮷良三郎満貞、石塔入道は、東山道、東海道、北陸道の軍勢を率いて二手に分かれて上洛し、八幡の背後を攻めて、朝敵を遠くへ追い払うようにと、諸将と打ち合わせて勅使を先頭にして都へ上った。
そして新田武蔵守義宗が、四月二十七日、越後の津張から出発して、七千余騎で越中の放生津に着くと、桃井播磨守直常が三千余騎で馳せ参ずる。合わせて一万余騎は五月十一日に前陣がすでに能登国へ向かって立つ。
𠮷良三郎、石塔も、四月二十七日駿河国を発って、道中の軍勢を集めて六千余騎を率いて、五月十一日に先陣がすでに美濃の垂井、赤坂に着いたので、八幡に加勢をしようと遠篝火を焚いた。
これだけでなく、信濃の下宮も、神家、滋野、友野、上杉、仁科、禰津以下の軍勢を呼び集めて、同じ日に信濃をお発ちになる。
伊予では土居、得能が兵船百余艘に乗って海上から攻め上る。
東山、北陸、四国、九州の官軍たちは、皆自国を出立したので、道中の遠近によって五日、三日の遅速はあるけれども、背後を攻める軍勢が近づいたと噂を立てたなら、八幡の寄せ手は皆退散するに違いなかったのだが、後四、五日を待ちきれないで、主上は八幡からお逃げになったので、諸国の官軍も力を落として、皆自分の本国へ引き返した。これもただ天運の時が至らず、神慮から起こったことだとはいうものの、何かと食い違う宮方の運のほどが思い知らされることである。
《後村上帝が八幡を立ち去った後に何事が起こったのかと思いながら読み進めると、なるほど、日付けを見れば、ずっと後返りをして話をしているのだ、と分かりました。
帝は、「住吉、天王寺」におられた時に、一度、由良新左衛門入道信阿を勅使にして、新田左兵衛佐義興に義兵を起こすように求められたことがあり、それを受けて義興が弟義宗、脇屋義治とともに挙兵したのが閏二月八日でした(一章)。そしてそれから二ヶ月後のこの頃、尊氏との戦いに敗れて義宗は越後へ逃げ、「新田義興、義治は川村の城に立て籠もり、武蔵守義宗は越後国にいた」のでした。児島志純が東国に着いたのはそういう状態の中で、つまり、彼は二人目の勅使ということになります。
それを受けて、義宗は、多分越後から、一万余騎の軍勢となって都へ向かい、駿河から石塔らが義興、義治と別れて、六千余騎(国府津に籠もった、全軍の数です・四章末)で向かいます。
と、簡単に言いますが、彼らは「八十万余騎」の尊氏勢に攻められて、いわば追いつめられ這々の体で逃げて行った格好だったように思います(四章)が、それにしては、この軍勢は大変な数で、「八十万余騎」の尊氏勢に睨まれている中で、よくぞ集められたものだという気がします。彼らが次々に上洛していくのを尊氏は知らなかったということでしょうか。
ともあれ、「義兵」は東西から続々と八幡に向かったのでしたが、わずか「四、五日」の差で、間に合いませんでした。しかし、はるばるやって上って来たこの「義兵」は、どうして賀名生へ帝を追って向かわなかったのでしょうか。義詮の足利勢は「三万余騎」(五章2節)だったのに対して、ここに集まった軍勢は、義宗と𠮷良らだけで一万六千余騎、その他それこそ北から西から集まって来たのは、雲霞のようではなかったかと思われるのですが、…。
関東は尊氏に圧倒され、八幡にせっかく集まった「義兵」も解散したのでは、もはや天下の趨勢は決したように思えるのですが、『集成』は、先の梗概を「関東の小手差原、鎌倉の戦い、それに京の周辺、八幡山の合戦にも、両軍ともにこれといった決め手のないまま世の中は混乱状態が続くのである」と、この巻を締めくくっています。
後醍醐帝の建武親政が崩れて、帝が比叡山から尊氏の軍門に下る形で還御されてから十六年になりますが、まだまだ天下は鎮まらないようです。》