「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

カテゴリ: 巻第三十一

 この度計略を立てて京都をお攻めになるためにまず住吉、天王寺へ行幸なさった時に、児島三郎入道志純も呼ばれて行っていたが、
「これは一大事であるので、急いで東国、北国へ下って、新田義貞の甥や子供に義兵を起こさせ、小山、宇都宮以下、味方になる大名を誘って、天下平定の大功を速やかに遂げるように、策略を図れ」と仰ったので、志純は夜を日に継いで関東へ下ったところ、東国の合戦はすでに事が終わって、新田義興、義治は川村の城に立て籠もり、武蔵守義宗は越後国にいたのだった。勅使は東国、北国に行って、
「帝はすでに大敵に囲まれなされて、助けの兵は力尽きている。もし高貴な方が卑しい者に囚われなされたならば、天下は誰のために争うのか」と、道義の重いことを言って命を賭けるべき習わしを語ったところ、小山五郎、宇都宮少将入道も、「帝の御仰せに従おう」と言って、東国を鎮める策を巡らすことを約束した。
 義興、義治はなお東国に留まって将軍と戦い、新田武蔵守義宗、桃井播磨守直常、上杉民部大輔、𠮷良三郎満貞、石塔入道は、東山道、東海道、北陸道の軍勢を率いて二手に分かれて上洛し、八幡の背後を攻めて、朝敵を遠くへ追い払うようにと、諸将と打ち合わせて勅使を先頭にして都へ上った。
そして新田武蔵守義宗が、四月二十七日、越後の津張から出発して、七千余騎で越中の放生津に着くと、桃井播磨守直常が三千余騎で馳せ参ずる。合わせて一万余騎は五月十一日に前陣がすでに能登国へ向かって立つ。
 𠮷良三郎、石塔も、四月二十七日駿河国を発って、道中の軍勢を集めて六千余騎を率いて、五月十一日に先陣がすでに美濃の垂井、赤坂に着いたので、八幡に加勢をしようと遠篝火を焚いた。
 これだけでなく、信濃の下宮も、神家、滋野、友野、上杉、仁科、禰津以下の軍勢を呼び集めて、同じ日に信濃をお発ちになる。
 伊予では土居、得能が兵船百余艘に乗って海上から攻め上る。
 東山、北陸、四国、九州の官軍たちは、皆自国を出立したので、道中の遠近によって五日、三日の遅速はあるけれども、背後を攻める軍勢が近づいたと噂を立てたなら、八幡の寄せ手は皆退散するに違いなかったのだが、後四、五日を待ちきれないで、主上は八幡からお逃げになったので、諸国の官軍も力を落として、皆自分の本国へ引き返した。これもただ天運の時が至らず、神慮から起こったことだとはいうものの、何かと食い違う宮方の運のほどが思い知らされることである。


《後村上帝が八幡を立ち去った後に何事が起こったのかと思いながら読み進めると、なるほど、日付けを見れば、ずっと後返りをして話をしているのだ、と分かりました。
 帝は、「住吉、天王寺」におられた時に、一度、由良新左衛門入道信阿を勅使にして、新田左兵衛佐義興に義兵を起こすように求められたことがあり、それを受けて義興が弟義宗、脇屋義治とともに挙兵したのが閏二月八日でした(一章)。そしてそれから二ヶ月後のこの頃、尊氏との戦いに敗れて義宗は越後へ逃げ、「新田義興、義治は川村の城に立て籠もり、武蔵守義宗は越後国にいた」のでした。児島志純が東国に着いたのはそういう状態の中で、つまり、彼は二人目の勅使ということになります。
 それを受けて、義宗は、多分越後から、一万余騎の軍勢となって都へ向かい、駿河から石塔らが義興、義治と別れて、六千余騎(国府津に籠もった、全軍の数です・四章末)で向かいます。
 と、簡単に言いますが、彼らは「八十万余騎」の尊氏勢に攻められて、いわば追いつめられ這々の体で逃げて行った格好だったように思います(四章)が、それにしては、この軍勢は大変な数で、「八十万余騎」の尊氏勢に睨まれている中で、よくぞ集められたものだという気がします。彼らが次々に上洛していくのを尊氏は知らなかったということでしょうか。
 ともあれ、「義兵」は東西から続々と八幡に向かったのでしたが、わずか「四、五日」の差で、間に合いませんでした。しかし、はるばるやって上って来たこの「義兵」は、どうして賀名生へ帝を追って向かわなかったのでしょうか。義詮の足利勢は「三万余騎」(五章2節)だったのに対して、ここに集まった軍勢は、義宗と𠮷良らだけで一万六千余騎、その他それこそ北から西から集まって来たのは、雲霞のようではなかったかと思われるのですが、…。
 関東は尊氏に圧倒され、八幡にせっかく集まった「義兵」も解散したのでは、もはや天下の趨勢は決したように思えるのですが、『集成』は、先の梗概を「関東の小手差原、鎌倉の戦い、それに京の周辺、八幡山の合戦にも、両軍ともにこれといった決め手のないまま世の中は混乱状態が続くのである」と、この巻を締めくくっています。
 後醍醐帝の建武親政が崩れて、帝が比叡山から尊氏の軍門に下る形で還御されてから十六年になりますが、まだまだ天下は鎮まらないようです。》

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 三月十五日から戦が始まってすでに五十余日に及ぶので、城中にはもう兵糧がなくなって、応援の兵を待つ当てもない。これではどうしようもないとささやき合うようになって、すぐに人々の様子が変わり、逃げ支度をするしかなくなった。そのころこれこそ中心的にお役に立つはずだった伊勢の矢野下野守と熊野湯川庄司が東西に巡らした幔幕をそのままにして両勢三百余騎が降服して出て行った。
 城の様子を敵に知られたら逃げるにも逃げられないだろう。それなら今夜主上をお逃がし申そうと、五月十一日の夜半に主上を馬にお乗せして前後を兵が取り囲んで、大和路へ向けてお逃げになると、数万の敵が前を塞ぎ後ろを追ってきて討ち取り申そうとする。節義を重んじて死を恐れぬ官軍が引き返しては防ぎ、打ち破ってはお逃げいただいている間に傷を受けて腹を切り、踏み止まって討ち死にする者が三百人に及んだ。その中で宮が一人お討たれになった。四条大納言隆資、円明院大納言、三条中納言雅賢卿もお討たれになった。
 主上は、軍勢に紛れなさろうとして山本判官が差し上げた黄色の糸の鎧をお召しになって、栗毛の馬にお乗りだったのを、一宮弾正左衛門有種が追いかけ申して、
「しかるべき大将をお見受けします。見苦しくも敵に追い立てられて、一度も引き返されないことよ」と叫んで攻めかかり、弓三本ほどに近づいたのを、法性寺左兵衛督がきっと振り返って、
「憎らしい物言いだ。いざお前に腕前のほどを見せよう」と言って馬から飛び降りて、百四十㎝の太刀で兜の鉢を割れよ砕けよと打たれた。さすがの強者一宮も尻餅をついてどっと打ち据えられ目が眩んでぼうっとしたので、しばらく心を静めようと目を塞いでいた間に、主上は遠くへ落ち延びられたのだった。木津川べりの西岸ぞいに御馬を急がせられると、備前の松田、備後の宮入道の兵達が二、三百騎で取り囲み申し上げる。十方から雨の振るように矢を射るので、お逃げになれようとは見えなかったが、天地神明のご加護があったのか、御鎧の袖と草摺に二本当たった矢も、まったく裏までは通らなかった。
 法性寺左兵衛督はこの時までなおお離れ申さずただ一騎でお供していたが、後から敵が懸かってくれば引き返して追い散らし、敵が前を遮れば討ち懸かって破って、主上をお逃げいただいていたところに、どこから来たとも分からない味方の兵百騎ほどが、皆中黒の笠印を付けて、御馬の前後にお付きして近づく敵を右に左に追い散らして、かき消すようにいなくなったので、主上はご無事で東条へお逃げになったのだった。
 八咫鏡の櫃を、初めにいただいて持っていた人が田の中に棄てたのを、伯耆太郎左衛門長生が着ていた鎧を脱ぎ捨てて自ら背負った。後から追う敵達は蒔き棄てるように矢を射たので、御櫃の蓋に当たる音は板屋根を通り過ぎる村雨のようだった。しかし体には一本も立たなかったので、長生は何とかかいくぐって賀名生の御所に参上した。多くの矢が櫃に当たったので、鏡も矢が立っているだろうと、不安に思って御櫃を見ると、矢の跡は十三もあったが、わずかに薄い檜の板を射通す矢は一本もなかったのは、不思議なことである。


《「三月十五日」は、義詮が近江から上って東山に陣を置いた日でした。あれから二ヶ月弱、ついに南朝は、再び賀名生へ逃げ込むことになりました。
 『集成』は巻頭の梗概で「荒坂山」、「八幡山」も合戦で「両軍は雌雄を決しないまま、吉野朝の後村上天皇は賀名生へと落ちる」と言いますが、ここの状況は、確かに「雌雄を決し」たとは言えないまでも、情勢の優劣は明らかだと思われます。
 むしろ、この状況の中で帝が無事に囲みを破って逃れることができたことは、「八咫鏡」が傷つかなかったこと以上に幸運だったとしか言えない様子です。ここでも法性寺左兵衛督の働きが出色でした。それにしても突然現れた中黒の笠印の一隊は何だったのでしょうか。まるで忍者部隊ですが、作者がその出来事を語るだけで、正体について何も語らないというのは、歴史を語るライターとしてどういうものだろうかと思います。ちょっと取材不足ではないでしょうか。》

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 五月四日、官軍は七千余騎の中から夜討ちに馴れた兵八百人を選び出して、法性寺左兵衛督に付けられた。左兵衛督は昼の頃からこの軍勢を自分の陣へ集めて、笠印を同じように付けさせ、
「誰かと問われたら、進むと名乗れ」と打ち合わせて、夜がいよいよ更けた頃になったので、宿院の後ろを回って如法経塚へ押し寄せ、八百人の兵達が一斉にどっと鬨の声を揚げる。細川の兵三千余人は、暗い上に狭くて、馬が放れ人が騒いで太刀も抜けず弓も引けなかったので、傷を受け討たれる者が数知れない。深い谷底へ人が雪崩を打って追い落とされたので、馬や武具を棄てること幾千万と知れない。
 一つの陣が破られると、残りの軍勢も無事ではないだろうとみると、土岐、佐々木、山名、赤松の陣は少しも動かず、鹿垣を固く結んでしっかり用心しているように見えたので、夜討ちを掛けようもなく、追い散らす手立てもなかったのだった。
 このままではいつまで持ちこたえられようか、和田、楠を河内国へ返して、敵の後ろから攻めさせよというので、彼ら二人を密かに城から出して河内国へ遣られた。八幡ではこの後ろを攻めるのを頼みとして、今か今かとお待ちになっているところに、これを自分にとっての大仕事と考えて気合いの入っていた和田五郎が急に病になって、間もなく死んでしまった。楠は父にも似ず兄とも違っていて、少しのんびりした性格だったので、今日しよう明日しようと言うばかりで、主上が大軍に囲まれていらっしゃることを、どうしようかとも気に掛けなかったのは、情けないことだった。尭の子は尭のようではなく、舜の弟は舜に似ないとはいうものの、この楠は正成の子であり、正行の弟である。いつのまにか親とは変わり、兄にここまで劣っているのかと非難しない人はいなかった。


《取り囲まれた石清水の「御山」の宮方は、窮余の一策でしょうか、西に回った足利の一隊に夜討ちを計画して、部分的にはみごとに成功、細川勢三千余騎をほぼ壊滅したようです。細川が四国から連れて来たのは「三千余騎」だったはず(1節)ですから、大打撃かと思いきや「土岐、佐々木、山名、赤松の陣は少しも動かず」(これは、洞ヶ峠にいる本隊でしょうか)、影響がなかったと言います。
 それではその本隊を後ろから攻めようと、楠を大きく南を迂回させてでしょうか、河内国へ送りましたが、なんとその楠は、動いてくれません。この人は正行の弟の正儀とされるようですが、先に洞ヶ峠に和田五郎と向けられた時(2節)も、その覚悟、実力についてもっぱら七歳年下の和田ばかりが注目されていました。ちょっと父や兄の名を汚してしまったようです。
 「誰かと問われたら、進むと名乗れ」が分かりにくいのですが、「誰か」と敵に問われた場合というのではなく、味方同士の「合い言葉」(『集成』)で、問うのは味方、であるようです。しかし、では暗闇で敵にそう問われたらどうなるのでしょう。やはりどうもよく分かりません。》

  都合で、明日から休載します。十七日に再開します。

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 悪五郎が討たれて官軍が勝利したとは言え、寄せ手は目に余るほどの大軍なので、最後はこの陣はもたないだろうと、楠次郎左衛門は夜に入って八幡に引き返したので、翌日朝、敵は直ぐに入れ替わって荒坂山に陣を取る。しかし、官軍も討って懸からず寄せ手も攻め上らず、八幡を遠巻きにして四、五日を経た頃に、山名右衛門佐師氏が出雲、因幡、伯耆の三ヶ国の軍勢を率いて上洛する。道中が遠かったので荒坂山の合戦には間に合わなかったことを残念に思われていたので、すぐに八幡へ押し寄せて一戦しようと淀から向かわれたが、法性寺の左兵衛佐がここに陣取って、淀の橋板を三間引き外して西の橋詰めに垣根のように楯を並べて待っていたので、橋を渡ることができず、それなら筏を作って渡れというので淀の民家を壊して筏を組んだところ、五月の長雨に水かさが増さって、押し流された。数日して淀の大明神の前に浅瀬があると聞き出して、二千余騎を一隊にして、流れを押し切って渡ると、法性寺の左兵衛佐がただ一騎、馬の駈け上がってくるところに待ち構えて、敵三騎を斬って落とし、曲がった太刀を押し直して悠然と引いて帰るので、山名の兵三千余騎が、
「大将と見えるのに、見苦しくも敵に後ろを見せられることよ」と追いかけた。
「引き返すのはたやすいことだ」と言って兵衛佐は引き返してはさっと追い散らし、また引き返しては斬って落とし、淀の橋詰めから御山まで、十七回もひきかえされた。しかし馬も切られず、わが身も痛手を負わなかったので、袖の菱縫いと吹き返しに立った矢を少し折って、御山の陣へ帰られた。
山名右衛門佐は財園院に陣を取ったので、左兵衛督はなお守堂口で防ごうとする。
 四月二十五日、四方の寄せ手が同時に示し合わせて攻めかかる。顕能卿の兵は伊賀、伊勢の三千余騎で園殿口で防ぎ戦う。和田、楠、湯浅、山本、和泉、河内の軍勢は、佐羅科で防ぎ戦う。戦いがまだ半ばであるのに、高橋の民家から火が燃え出て、激しい風が十方に吹きかけたので、官軍は煙に咽んで防ごうとするができないので、皆八幡の御山へ引き上げる。
 四方の寄せ手二万余騎はすぐに洞ヶ峠へ上がって、土岐、佐々木、山名、赤松、松田、飽庭、宮入道が各隊数十ヶ所に陣を取って、鹿垣を結んで八幡山を五重六重に取り巻いた。細川陸奥守と同じく相模守は真木、葛葉を回って八幡の西の峰の端の如法経塚の上に陣を取って、敵と堀一重を隔てて攻めた。


《この辺りは、ちょっとごちゃごちゃした話で、小さな出来事や小競り合いといった印象です。山名がやって来て「淀」(今の京都競馬場のあたりに「淀」の地名があります)から川を渡って攻め込もうとしました。淀から石清水へは宇治川と木津川を渡らなければなりませんが、後に「財園院」(木津川の北岸のようです)」に陣を取ったとありますから、法性寺左兵衛佐が橋板を外していて渡れなかったというのは、宇治川の橋のことでしょう。代わりに筏を作って渡ったところ流されてしまって失敗、次に浅瀬を見つけて馬でやっと渡ったら、向こう岸で法性寺がただ一人で待ち伏せしていて、その勇者ぶりを披露されてしまいましたが、これらも宇治川の話でしょう。
 法性寺にいい場面を作らせてしまいましたが、ともかく山名勢は宇治川を渡ったようで、「財園院」に陣を張り、法性寺は一旦「御山」へ帰ったのですが、またやって来て守堂口(木津川の南岸のようです)に木津川を挟んで対峙しました。
 以上が三月末の話で、そのまま何をしていたのか、ほぼ一ヶ月が過ぎた四月二十五日に足利勢はやっと攻撃を始めました。「四方の寄せ手」というのがよく分かりませんが、園殿口は先の守堂口のすぐ南、佐羅科は石清水から一,五キロほど南、高橋は石清水のすぐ東側です。
火事の煙に咽んだ宮方は、一斉に「御山」へ引き上げます。
 足利勢は「御山」の東から南へ進み、洞ヶ峠(先の荒坂山の近くのようです)に陣を張り、回りこんで、中の細川らの一隊はさらに西へ回り込んで、御山を取り囲みました。》

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 その年三月二十四日、宰相中将殿は三万余騎を率いて宇治路を回って、木津川を渡り、洞ヶ峠に陣を取ろうとする。これは河内、東条の通路を塞いで敵の兵糧を断つためである。八幡からここへは和田五郎、楠次郎左衛門を向けられたが、楠は今年二十三歳、和田は十六、どちらも若武者なので思慮のない合戦をするのではないかと諸卿はみなが心配に思われたところ、和田五郎が参内して、
「親類、兄弟が皆たびたびの合戦で身を捨てて討ち死に致して果てました。今日の合戦はまた朝廷にも私にも一大事だと思います以上は、命を賭けての合戦を致しまして、敵の大将を一人討ち取らずに生きて再び御前には帰り参ることはないでしょう」と言い切って退出したので、並み居る諸卿や諸国の兵は、なんとも末代までの勇者よと感心しない人はいなかった。
 さて、和田、楠、紀伊国の軍勢三千余騎が皆荒坂山へ向かってそこを防ごうと備えていたところ、細川相模守清氏、同じく陸奥守顕氏、土岐大膳大夫、弟の悪五郎が六千余騎で押し寄せた。山道は険しく峰は高くそびえていたので、麓から皆馬を乗り捨てて肩に担ぐようにして上った。こういう戦に元来慣れている大和、河内の者たちで、岩の陰や岸の上に走り渡って激しく射たので、正面の土岐と細川の兵達は、射すくめられて進むことができない。
 土岐悪五郎は、その頃天下に名を知られた力持ちで敏捷、太刀を取っての達人だったので、卯の花縅の鎧に鍬形を打った兜、水色の笠印を風に靡かせ、百七十㎝の大太刀を抜いて構え左の袖を振りかざして、遙かに遠い山道をただ一息に登ろうと、猪が駆けるようににっこりと笑って上ったのを、和田五郎は何と立派な敵だとじっと見て、構えていた楯をばっと投げ捨て、百五㎝の小長刀を柄を短く持って渡り合う。その時相模守の郎等で関左近将監という兵が土岐の脇からつっと走り出て、和田五郎に討って懸かる。和田の家来がこれを見て、小松の陰から走り出て近くに詰め寄って、引き絞って放った矢が関将監の胴を射貫いて小膝をついて倒れ伏した。悪五郎が走り寄って引き起こそうとしたところを、また和田の家来が二の矢をつがえて悪五郎の脇楯の板を深々と射貫いた。関将監はこれを見て、もはや助けてくれる人はいないと思ったのか、腰の刀を抜いて腹を切ろうとしたのを、悪五郎が、
「待て、自害するな、お助けする」と言って、脇楯を射られた矢を脇楯ごと引き切って投げ捨て、懸かってくる敵を五、六人斬り伏せ、関将監を左の小脇に抱えて、右の手で例の太刀を振り回して近づいてくる敵を打ち払って三百mほど逃げた。後に続いてどこまでも追いかけた和田五郎も討ち漏らしてしまった。面白くなく思っていたところ、悪五郎の運が尽きたのか、夕立に崩れていた路肩があったのをひらりと飛び越えたところ、岸の縁の土がぐらっと崩れて、薬研のような所へ悪五郎が落ちたので、走り寄って長刀の柄を延ばして二人の敵を討ったのだった。入り乱れての戦いの中だったので、首を取るまでもない。悪五郎が引き切って棄てた脇楯だけを取って、討った証拠に用意して、鎧に射られて折れた矢を立てたまま主上の御前に参り、合戦の様子を申し上げると、
「初めに言っておった言葉と少しも違わず、大敵の将を一人討ち取って、数カ所の傷を受けながら、無事に帰ってきたことは、前代未聞の手柄である」と深く感心なさった。


《荒坂山は、「八幡市内。江戸時代まで荒坂城の跡があったと言う」(『集成』)ところで、今の八幡市美濃山荒坂がそれだとすると、石清水八幡の南四キロほどの所です。
 楠正成の後継者がまだ残っていました。次郎左衛門は、正行の弟、和田五郎もやはり「楠氏の一門」(『集成』)のようで、ここは和田五郎の手柄話です。弱冠十六歳ながら、居並ぶ重臣の前で大見得を切って出陣したのでしたが、その言葉のとおり、「天下に名を知られた力持ちで敏捷、太刀を取って達人」という悪五郎を討ち果たして凱旋しました。もっとも、内容的には彼自身の手柄ではなく、彼の部下が弓矢によって深手を負わせ、後は悪五郎自身が事故で崖から落ちたところを斬って討ち取ったのでしたが、まあ、彼の部下がやった事は彼がやったことになるでしょう。討ったことには間違いありません。》

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