「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

タグ:川尻肥後守幸俊

 中国地方はおおむね治まっているようだけれども、九州がまた蜂起したので九月二十九日、肥後国から都へ早馬で、
「兵衛佐直冬が先月十三日当国に到着され、川尻肥後守幸俊の館に住まわれたところに、宅磨当太郎守直が加勢して国中で兵を集めたので、幕府方に味方する者たちがあったけれども、その攻撃に堪えられなくて、従わない者がいない。そうしている間に川尻の軍勢は雲霞の如くになって、宇都宮三河守の城を囲むと、一日一夜合戦して、討たれる者百余人、傷を受けた兵は数が知れない。ついに三河守は城を攻め落とされ、いまだ生死が知れない。宅磨と川尻はますます大軍になって鹿子木大炊助を取り囲んだので、後ろを攻めるために少弐の代官宗利が近国に挙兵を促したが、九州と壱岐、対馬の兵達は大方が兵衛佐殿に味方していたので、求めに応じる者は多くない。事はすでに難しくなってきた。急いで軍勢を派遣されたい」と言った。
 将軍はこの報告を聞いて、
「さて、誰を討手にやろうか」と執事武蔵守にお尋ねになったところ、師直が、
「遠国の乱を鎮めるためにはご一家の末流か、私などが行くべきですが、今回は何としても上様直々にお下りいただいて成敗なさらなくてはならないでしょう。なぜならば、九州の者たちが兵衛佐殿にお付きしたのは、ただ将軍の御子ですので、内々お心を通じていらっしゃる事があるだろうと考えるからです。世の人は、思いの他に直々に御成敗の合戦をなされば、誰もが、父子の確執に天の罰が下されると思うでしょう。将軍の御指揮で私が命を捨てて戦うならば、九州、中国の全てが敵に味方したとしても、何を恐れることがありましょうか。すぐに急いでお下り下さい」と強くお勧め申したので、将軍は一言も異論なく、都の警固には宰相中将義詮を残し置いて、十月十三日、征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿は、執事武蔵守師直をお連れになって、八千余騎を率いて兵衛佐直冬討伐のために、まず中国へとお急ぎになった。

《ついに直冬が九州で兵を起こしました。順調な滑り出しで、すでに一大勢力を作り上げているようです。
 報告を受けた尊氏は師直に相談、その師直の意見を「一言も異論なく(原文・一義にも及びたまはず)」に受け入れます。仮にも自分の息子を討つのに、それはないだろうという気がします。下克上が確定して、言いなりだということなのでしょうか。
 タイトルには「蜂起」とありますが、彼の動機や目的は、どこまで考えていたのでしょうか。直接は語られないのでよく分かりませんが、もちろん発端は父への不満なのでしょうが、父を倒すことまで考えていたのでしょうか。
 また、川尻や宅磨はどう考えていたのでしょうか。直冬への共感、加勢が主なのか、単に勢力拡大の看板に利用したに過ぎなかったのか、…。それぞれ、「肥後守」「別当」というそれなりの役職をもらっているのですから、特に反乱の旗を挙げなくてもいいような気がしますが、直冬への道義的、心情的な共感だけでこんなだいそれた企てをしたと考えるのも無理があるようにも思います。やはり、あわよくば天下を我が物に、という野心がベースなのでしょうか。
 ついに尊氏が腰上げました。フルネームで呼び挙げられて、威風堂々の出陣です。》

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 右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を逃れて川尻肥後守幸俊のもとにいらっしゃったが、討ち申すように将軍から通知を出されたけれども、これは全く師直が言上したものであった。じっさいに将軍のお考えから始まった通知ではないと、誰も推し量ったので、後の災いを考えて、討ち申そうとする人はいなかった。
 そうしているところに、太宰少弐頼尚がどう考えたのかこの右兵衛佐殿を聟にとって、自分の屋敷に置き申したので、九州以外の者もその誘いに応じてこの人の命に従う者が多くいた。これによって宮方、将軍方、兵衛佐殿方と国々が三つに分かれたので、世の中の争乱はますます止むことがないことになった。まったく、漢の世が傾いて後、呉、魏、蜀の三国が鼎のように競い立って、それぞれに二つを滅ぼそうとした戦国の始めによく似ていた。

《これもまた短い章ですが、その中に、いろいろな人のいろいろな思惑が交錯して、なかなか面白い章です。備後の鞆にいた直冬を討てと師直が触れを出した時は、その求めに従って杉原が討手を差し向けたのでした(巻第二十七・六章)が、九州までは師直の威光が届かなかったのか、ここでは誰も動きません。
 それどころか、頼尚という男は、この人を押し立てて一旗揚げようと目論んだようで、聟に迎えて同志を募ると、その誘いに応じて多くの者も集まって、結果的に直義の勢力が膨らみ、呉、魏、蜀は少々大袈裟に聞こえますが、ともかく三つの大きな勢力となりました。
 直冬は、父尊氏と対峙することになるこの企てをどう考えたのか、気になるところですが、触れられません。》

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 このことがあった後は、ますます師直の権威が重くなって、三条殿の方の人々は顔を伏せ眉をひそめる。中でも右兵衛佐直冬は、中国の探題で備後の鞆におられたが、師直が近国の地頭や御家人に触れを出して討ち申し上げよと言い遣ったところ、その年の九月十三日、杉原又四郎が二百余騎で押し寄せた。突然のことだったので防ぐ兵も少なくて、直冬朝臣は今にも討たれるところだったが、磯部左近将監の若党が懸命に防いだところ、皆屈強の腕利きで狙った的をのがさず射た矢で十六騎に負傷させ、十三騎を馬から射落としたので、杉原が少しひるんで攻めかかることができなかったので、その間に右兵衛佐殿は川尻肥後守幸俊の船に乗って肥後国へお逃げになった。志のある者は小舟に乗って追いついた。
 この佐殿は将軍の嫡男で中国地方の探題として派遣されて、人々は皆従いお仕えして、富み栄え始めて酒を酌み交わす席を催し、楽しみがまだ半ばでもなかったのに、夢の間に変わって、無念の思いを抱きながら筑紫へ潮の引くように鳴門に向かって、舟は帆に風をはらんで雲の彼方を目指し、靄の立ちこめる海上は遙か遠く広がっている。はるばると漂白の旅となり、小舟の心細い思いに波に濡れた袖に泣くことも忘れてしまいそうである。かつて父尊氏卿が京都の戦に敗れて九州へお逃げになったが、間もなく帰洛をお喜びになったことは、遠くないよい例だと人々は勇み立ったが、行く先がどうなるか知れない筑紫への旅なので、遣りきれない思いであった。九月十三夜の名高い月が明るく、旅寝の思いもひとしおだったので、直冬が、
  梓弓われこそあらめ引きつれて人にさへうき月を見せつる
とお詠みになったので、袖を濡らさぬ人はいなかった。


《尊氏からは冷遇されていたらしい直冬でしたが、初陣で手柄を上げた(巻第二十六巻末)こともあってか、師直らから見ると、注意しなければならない足利の嫡男だったのでしょう。都の騒動の一ヶ月後、この機にとばかりに討伐の密命が下されて、杉原(すぐ隣の尾道市にいたようです)が誘いに応じて討手となりました。父からは疎まれ、父の敵からも狙われるという、何とも気の毒な立場ですが、「人々は皆従いお仕えして、富み栄え始めて酒を酌み交わす席を催し」ていたといいますから、人望を得ることのできる、優れた人だったのでしょう。逆に、だからこそ師直から警戒されることにもなったものと思われます。 
不意打ちを受けて、かろうじて逃げ出して、九州に落ちていきました。「無念の思いを抱きながら」からの逃避行は、道行き調の文章で飾られて、悲傷の感がいっそう深まります。途中「鳴門をさして」は方角が違いますが、『集成』が「文飾」とします。こういうのも、ありなんでしょうか。ちょっと驚きます。
こういうところで、さらりと歌を残すあたりも、なかなかできた人と思わせます。》

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