「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

タグ:石塔右馬助頼房

 左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下ろうとした時に、ひそかに殺し申そうとする企てが樽と伝えられたので、その死を逃れるためにひそかに大和国へ逃げて、越智伊賀守を頼られたところ、近辺の村人が心を合わせて力添えして、道々を切り塞いであちこちに関所を作って、全く二心がないように見えた。その後一日して石塔右馬助頼房以下、少々志のある昔なじみの人々が馳せ参じたので、もはや隠れようのない様子だった。その噂は都でも田舎でもさまざまだった。
どうしても天子のご意思でなければなくては、個人的な狙いが達しがたいということで、まず京都へ人を上らせて、院宣をお願い申されたところ、問題なく早速に宣下され、それどころか希望もしないのに鎮守府将軍に任ぜられた。その言葉には、つぎのようにあった。
  院宣をいただいて言う、斑鳩宮が守屋を処罰し、朱雀院が将門を討った、これは悪を
  棄て善を守る天子のお考えである。ここに無法の者を征伐し父と叔父、二人の無念を
  慰めたいと思うことに院は深く感心しておられる。よって鎮守府将軍に任じ、左兵衛
  督に任ずることにする。早速九州と二島ならびに畿内、七道の軍勢を率いて上洛を計
  画し、天下を守護せよ。
  かくて院宣によっての仰せは以上のようである。
    観応元年十月二十五日           権中納言 国俊承る
   足利左兵衛督殿


《分かりにくい章です。
 まず、「近辺の村人が…関所を作って」は、幕府方に付いて直義の入国を阻んだようにも読めそうですが、そうではなく逆にそのようにして左兵衛督を守ってくれた、ということのようです。
 「噂は…さまざまだった」というのは、さまざまに(尾ひれが付いて?)広がった、ということでしょうか。
 そうだとすると、「個人的な狙い(原文は、「私の本意」)」は、直義の「本意」で、彼はまだ高一家の排斥の目論見を失ってはいなかったようです。そこでその追討の院宣をもらおうと、光厳院に使いを遣ったのでした。
 すると、院も高一家の奢りを快く思っておられなかったようで、「問題なく、早速に」その願いを聞き届けられました。
 もっとも、この院宣は直義(左兵衛督)宛てではなくて、直冬(右兵衛佐)に与えられたものという説が有力なようで、宛名を直義にしたのは『太平記』の誤りなのかも知れないと『集成』が言います。これを直義宛とすると、「父と叔父」の該当者が分かりにくく、直冬なら尊氏と直義で明快です。また同書は、すでに左兵衛督であった直義を、ここで改めて同じ職に任じたというのも変だと言って、何か「混同を犯した」か、「この院宣は物語が作り出したものかも知れない」としています。
 また、石塔右馬助頼房は、前章で、直義と一緒に京から脱出したはずですから、ここで「馳せ参じた」というのは変です。『集成』は、前章の方が間違いかとして、別の人の名を挙げています。
 さて、直義はこの後、驚くべき行動に出ます。》

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 将軍がいよいよ明日西国へ発たれると伝えられたその夜、左兵衛督入道慧源は、石塔右馬助頼房だけを連れて、どこへとも知れずお逃げになったのだった。これを聞いて世の中の心配する人は、「さあ、天下の乱が起こるぞ。高家一族は今に滅びるだろう」とささやいた。ことの事情の分からないそちら方の人々の女性達は、「何とあきれたこと、この世の中はどうなるのだろう。お供に着いて行った人もいない。御馬も皆厩に繋がれている。徒歩で裸足では、どこへも一歩もお逃げになれないだろう。これは全部武蔵守の謀で、今夜こっそり殺してしまうのだろう」と、声も惜しまず泣き悲しむ。
仁木、細川の人々も、執事の館に急ぎ集まって、
「錦小路殿がお逃げになりましたことは、後の禍が遠くないと思われますので、しばらく都にお留まりになって、居場所をよくお調べになるのがよいでしょう」と申されたところ、師直は、
「何と大袈裟なことだ。たとえ吉野、十津川の奥、鬼界が島や高麗の方へお逃げになったとしても、私が生きている間は、だれがその人の味方になろうか。首を獄門の木に曝し、屍を卑しい者の鏃に懸けられることは、三日以内であろう。その上、将軍のご出発のことは、すでに諸国へ日を示して触れて遣ってある。約束が違えば、面倒なことが多くなる。少しも留まるべきではない」と言って、十月十三日の早朝に、師直はとうとう都を発って、将軍を先にお立てして、道中の軍勢を引きつれて、十一月十九日に備前の福岡にお着きになる。ここで中国四国の軍勢を待ったけれども、海上は波風が荒れて船も通わず、山陰道は雪が降り積もって馬も歩けなかったので、馳せ参じる兵は多くない。それでは年が明けてから九州へ向かおうということで将軍は備前の福岡でむなしく日を送られたのだった。


《零落蟄居の直義でしたが、なおまだ身の危険を感じるようなことがあったということでしょうか。あるいは、なお復帰を期して反転攻勢の機会を求めたということでしょうか。将軍出立の前夜とはいいタイミングを狙ったものです。
 師直の言葉は、自信満々ですが、こういう判断はえてして慢心となって、逆の結果をもたらすもののように思います。これは凋落の兆しなのではないか、備前福岡での意に添わない足止めは、その兆しの顕現ではないか、…。
ところで、直義逃亡についての世の人々の噂話はいつの話なのでしょうか。このまま読むと、その晩の話のように読めますが、そうすると、少なくとも身内には事が事前に漏れていたことになります。まさかそんなことはないでしょう。しかし「今夜」という言葉がある以上、そういうことになりそうですが、…。少なくとも、「世の心配する人」の言葉と、「そちら方の人々の女性達」の言葉の時系列は順序が逆でしょう。》

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