「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

タグ:越智伊賀守

 左兵衛督入道は都を仁木、細川、高家の一族達に背かれて当てもなく出て行った。大和、河内、和泉、紀伊国は皆吉野の帝の命に服して、今更武家に従うだろうとも思えなかったので、沖にも着かず磯からも離れたような気がして、行く先を失ってしまった。越智伊賀守は、
「これでは何とも難儀なことだと思われます。いっそ吉野殿のところにおいでになって、過去の過ちを改めて、今後の道を開く方策をお考えになるべきだと思います」と申したところ、
「なるほど、それはそうだ」ということで、早速特別の使者を送って、吉野朝に、
  元弘の初め、先帝が逆臣のために皇居を西海に移されてお心を傷められました時に、
  勅命に応じて道義の兵を起こした者たちは多くありましたが、ある者は敵に囲まれ、
  あるいは戦に負けて気力を失い、志を失いましたが、私はかりにも尊氏に勧めて上洛
  を図り、勅に応じて戦いを挑み、天下を帝の世に落ち着けましたことは、帝のお心に
  喜びを残されていることと思います。
  その後義貞らの讒言によって罪なくして帝のお怒りを受ける身となり、君と家臣が意
  味もなく遠く離ればなれになりました。一門の皆が朝敵の名を残すのは、嘆いても余
  りあるところです。私の罪はまことに重いといっても、帝のご恩で過去をお咎めにな
  らないのなら、そして罪を深謝してその罪をお許し下さるなら、すぐにお許しのお言
  葉をいただき天下の大乱を鎮め、帝の世の安泰を願う所存です。
  この旨、内々に御意をいただき、奏上させていただきます。謹んで申し上げます。
     十二月九日                      沙弥慧源
    進上 四条大納言殿
と詳しい書状を奉って、降参の意を申された。
 早速諸卿が参内して、このことをどうされるべきかと協議がなされたところ、まず洞院左大臣実世が、
「直義入道が言うところは、大変な偽りがある。代々足利に仕えてきた師直、師泰のために都を追い出され、身の置き所がないので、仮に帝の権威を借りて自分の念願を果たすために、帝のお耳に入れるものだ。二十余年の間帝を初めとし申し上げて、あらゆる役人達は誰もが都の御所を思い、空しく飛ぶ鳥が翼を切られたような思いをしたのは、全て直義入道の悪行によるものではないか。ところが今、幸いにも降参することを願い出ている。これは天の与えたことである。この機会に乗じてこれを処罰しなければ、後の禍で臍を嚙むことがあっても、益はないだろう。すみやかに討手を差し遣わして、首を皇居の門前に曝すべきだと思います」と申された。
 次に、二条関白左大臣殿が、しばらく思案して、
「張良の『三略』の言葉に『恩恵を与えれば人々の力は日々新たであって、戦う時には風が起こるように自然に力が出る』と言っている。そもそも、自分の罪を謝る者が忠義貞節を尽くすのは、かえって二心がないからである。だから、章邯が楚に降伏して秦がすぐに敗れ、管仲は罪を許して斉はすぐに治まったのが、今の大きな指針となるだろう。直義入道がこちらに来るならば、帝が長く天下を治められることが、ここから始まるだろう。元弘の昔の功績を決して忘れず、官職に戻して召し使われる以外のことは考えられないと存じます」と、異なった意見を申された。
 主だった二人の異なる意見は、それぞれ得るところ失うところがある。是非を区別しがたい。


《章のタイトルにあるとおりですが、何と、直義は南朝に保護を求めたのでした。直義の言うように、元弘の戦いから建武の親政に至るまでは、尊氏を支えて後醍醐帝に大きな貢献をしたと言えますが、その後は兵部卿宮の殺害から始まって、後醍醐帝に反旗を翻して戦い続け、南北朝となって足利が幕府として動き始めて以後は、何と言っても将軍の弟というだけでも№2だったわけですが、それ以上に、本書にはあまり語られませんが、諸研究によればある時期までは幕府を実質的に動かしていたのはこの人だったようで、南朝から見れば、自分たちを追いつめてきた張本人ということになります。
 ですから、実世の意見は、まったく当然のものと言えます。ただこの人は、脇屋義助が美濃からやって来た時も、敗残兵扱いの厳しい意見を述べて四条隆資の反論にあっています(巻第二十二・二章)ので、いささか硬直した考え方の人のようではあります。直義の南朝にとっての利用価値は小さくはないでしょう。
 その点を二条関白が述べます。作者の大好きなディベートです。
 そして三人目は北畠親房の論で、それによって判定が下されますが、これがまた、この場にいる人誰もが知っているであろう、『史記』の項羽と沛公の物語を延々と、『集成』にして二十五頁にわたって語るということになりますので、次はそれを一括して掲載します。話の要点は最後の十行ほどです。》

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 左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下ろうとした時に、ひそかに殺し申そうとする企てが樽と伝えられたので、その死を逃れるためにひそかに大和国へ逃げて、越智伊賀守を頼られたところ、近辺の村人が心を合わせて力添えして、道々を切り塞いであちこちに関所を作って、全く二心がないように見えた。その後一日して石塔右馬助頼房以下、少々志のある昔なじみの人々が馳せ参じたので、もはや隠れようのない様子だった。その噂は都でも田舎でもさまざまだった。
どうしても天子のご意思でなければなくては、個人的な狙いが達しがたいということで、まず京都へ人を上らせて、院宣をお願い申されたところ、問題なく早速に宣下され、それどころか希望もしないのに鎮守府将軍に任ぜられた。その言葉には、つぎのようにあった。
  院宣をいただいて言う、斑鳩宮が守屋を処罰し、朱雀院が将門を討った、これは悪を
  棄て善を守る天子のお考えである。ここに無法の者を征伐し父と叔父、二人の無念を
  慰めたいと思うことに院は深く感心しておられる。よって鎮守府将軍に任じ、左兵衛
  督に任ずることにする。早速九州と二島ならびに畿内、七道の軍勢を率いて上洛を計
  画し、天下を守護せよ。
  かくて院宣によっての仰せは以上のようである。
    観応元年十月二十五日           権中納言 国俊承る
   足利左兵衛督殿


《分かりにくい章です。
 まず、「近辺の村人が…関所を作って」は、幕府方に付いて直義の入国を阻んだようにも読めそうですが、そうではなく逆にそのようにして左兵衛督を守ってくれた、ということのようです。
 「噂は…さまざまだった」というのは、さまざまに(尾ひれが付いて?)広がった、ということでしょうか。
 そうだとすると、「個人的な狙い(原文は、「私の本意」)」は、直義の「本意」で、彼はまだ高一家の排斥の目論見を失ってはいなかったようです。そこでその追討の院宣をもらおうと、光厳院に使いを遣ったのでした。
 すると、院も高一家の奢りを快く思っておられなかったようで、「問題なく、早速に」その願いを聞き届けられました。
 もっとも、この院宣は直義(左兵衛督)宛てではなくて、直冬(右兵衛佐)に与えられたものという説が有力なようで、宛名を直義にしたのは『太平記』の誤りなのかも知れないと『集成』が言います。これを直義宛とすると、「父と叔父」の該当者が分かりにくく、直冬なら尊氏と直義で明快です。また同書は、すでに左兵衛督であった直義を、ここで改めて同じ職に任じたというのも変だと言って、何か「混同を犯した」か、「この院宣は物語が作り出したものかも知れない」としています。
 また、石塔右馬助頼房は、前章で、直義と一緒に京から脱出したはずですから、ここで「馳せ参じた」というのは変です。『集成』は、前章の方が間違いかとして、別の人の名を挙げています。
 さて、直義はこの後、驚くべき行動に出ます。》

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