「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、 しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。

タグ:阿曽弾正少弼

 さて、阿曽弾正少弼は八万余騎の軍勢を率いて赤坂へ押し寄せ、城の五百m四方を雲霞のごとくに取り囲んで、まず鬨の声を揚げた。その音は山を動かし地を震わせたので、苔の生えた崖も崩れるほどである。この城の三方は、川岸が高く屏風を立てたようである。南の方だけは平地が続いて、堀を広く深く切って掘り、岸の崖の上は土塀を塗ってその上に櫓を建て連ねているので、どのような力持ちや身の軽い者でも、容易に攻める方法がない。
 しかし寄せ手は大軍なので、侮って楯から出て矢をまともに受けながら進んで堀の中へ走り下りて、切り立った岸を上ろうとしたところを、塀の中から屈強の射手たちが弓を引き絞って思いのままに矢を射たので、戦いの度ごとに負傷し、死ぬ者が五百人、六百人を出さない時がなかった。これにも恐れず新手を入れ替え入れ替え十三日まで攻めたのだった。しかし城中は少しも弱らないように見えた。
 この時播磨国の住人、吉川八郎という者が、大将の前に来て、
「この城の様子は、武力で攻めましては、容易に落ちそうにありません。楠はこの一、二年の間に和泉、河内を支配して、たくさんの兵糧を取り入れているそうですから、兵糧も容易にはなくならないでしょう。よくよく思案を巡らしますと、この城は三方が谷が深くて土地が途切れており、一方は平地でしかも山は遠く離れています。ですからどこにも水があるとは思えません。火矢を射れば、水鉄砲で消します。この頃は雨が降る事もありませんから、これほどまでに水がたくさんありますのは、きっと南の山の奥から地面の底に樋を埋めて城中に水を引き入れているかと思われます。どうか人夫を集めて山の麓を掘って切ってご覧下さい」と申したので、大将はなるほどと思って、人夫を集めて城に続く山の麓を一直線に掘り切ってみると、思った通り土の底六mあまりの深さの所に樋を伏せて引いていた。
 この揚げ水を止められて以後、城中では水が乏しくなって、軍勢は口の渇きが耐えがたいので、四、五日の間は草の葉に下りた露を嘗め、夜気に湿った地面に這いつくばって雨を待ったけれども、雨が降らず、寄せ手はこれに力を得て絶え間なく火矢を射たので、正面の櫓二つを落とした。城中の兵は水を飲まないで十二日になったので、もはや気力が尽きて防ぐべき手立てもなかった。


《いよいよ本格的な合戦が始まりました。強固な城に向かって大軍が一気に押し寄せます。
 それはいいのですが、「大軍なので、侮って楯から出て矢をまともに受けながら進んで」というのがよく分かりません。大軍であろうが何であろうが、敵が矢を射てくる限り、「楯から出て」はまずいのではないでしょうか。「侮って」敵は何もしてこないだろうとでも思ったのでしょうか。そういう攻撃を「十三日まで」続けたと言います。前に開戦は「二月二日」とされていました(1節)から、十一日間続けたわけで、ずいぶん大雑把な攻撃です。
 しかし、そうした中にもさすがに知恵者がいて、城の水の補給路を見つけてそれを断ったので、楠軍は一気に窮地に陥ってしまいました。
 給水路は地下六m(原文では「二丈あまりの下」です。二階の庇より少し高いくらいの深さでしょうか)に樋が埋められていたというのですが、山の中でそれだけの深さの溝を、多分何㎞かになったでしょうが、掘ったとは、どれだけ大変な作業だったでしょう。
 ともあれ、さすがの赤坂城も、水を断たれて窮地となりました。》

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 その時、赤坂城に向かっていた大将阿曽弾正少弼は、後続の軍勢を待って合流するために天王寺に二日留まって、同じ二月二日の正午に開戦になるだろう、抜け駆けの者があったときは処罰するという触れを出した。そこに武蔵国住人で人見四郎入道恩阿という者がいた。この恩阿が本間九郎資貞に向かって、
「味方の軍勢が雲霞のごとくなので、敵陣を攻め落とすことは疑いない。そこで状況を考えてみると、幕府が天下を治めて権力を握っている事、すでに七代を越えている。天道は満ちたものを欠くという道理を遁れる事はできない。そこでは臣下であって帝を流罪にし申し上げるという罪を重ねて、はたしてその身を滅ぼさない事があろうか。私は不肖の身ではあるが、武恩を受けてすでに七十歳を越えた。今日から後これといった楽しみもない身でいたずらに長生きして武運が衰えるのを見るのも、老後の嘆きとも往生の妨げともなるに違いないので、明日の合戦に先駆けして一番に死んでその名を末代に残そうと思う。」と語ったので、本間九郎は、心中ではなるほどと思いながらも、
「つまらぬことをおっしゃるものだ。これほどの総掛かりの体勢でむやみな先駆けをして討ち死にしても、さしたる功名とも言われないだろう。だから私は人と同じように振る舞おうと思う」と言ったところ、人見はいかにもおもしろくなさそうな様子で本堂の方に行ったので、本間はそれを変に思って人に後を付けさせてみると、矢立を取り出して石の鳥居に何か分からないが一筆書き付けて、自分の宿所に帰った。本間は、やはりそうか、この者にきっと明日先駆けをされてしまうと油断なく、まだ宵のうちから出発して、ただ一騎東条を目指して向かった。石川河原で夜を明かしていて朝霞の晴れ間から南の方を見ると、紺の唐彩おどしの鎧に白幌を掛けて鹿毛の馬に乗った武者が一騎、赤坂城へ向かった。何者だろうと馬を寄せてこれを見ると、人見四郎入道だった。人見は本間を見つけて、
「昨夜仰ったことを本気だと思っていたならば、孫ほどの人に出し抜かれただろうが」と笑って、どんどん馬を進めた。本間は後を追って、
「こうなっては互いに先を争うには及ばない。同じ所で屍をさらして冥土まで同道しましょう」と言ったので、人見は、
「申すまでもない」と返事して、後になり先になり、言葉を交わしながら馬を進めたが、赤坂城の近くになったので、二人は馬の鼻を並べて駆け上がり、堀の際まで寄って鐙を踏ん張り弓をついて大音声で、
「武蔵国住人の人見四郎入道恩阿年積もって七十三、相模国の住人本間九郎資貞生年三十七、鎌倉を出てから軍の先陣を駆けて屍を戦場にさらそうと思ってここに来た。我こそと思う者どもは出てきて戦い、手並みをご覧あれ」とそれぞれに叫んで、城をにらんで待ち構えた。 
 城中の者たちはこれを見て、
「これだな、板東武者の心意気というのは。これはまったく熊谷、平山の一ノ谷の先駆けを伝え聞いて羨ましく思っている者たちだ。後ろを見ても続く者もいない。またそれほど名のある者とも見えない。無頼の無鉄砲な武者と関わり合って命を失っても仕方が無い。放って置いて様子を見よう」というのでどこも鳴りを静めて返事もしない。人見は腹を立てて、
「早朝から名乗っても城から矢一本も射出さないのはとんでもない臆病か、敵を侮るのか。よし、そういうことなら腕前を見せよう」と馬から飛び降りて堀の上の細い橋をさっと渡り、二人は出塀の脇にぴったり体をくっつけて城門を破ろうとしたので、城中はこれに驚いて、土狭間や櫓の上から雨の振るように射た矢が二人の鎧に蓑の毛羽のように立った。本間も人見も、もともと討ち死にしようと腹を決めている事なので、どうして一歩も引いたりしようか、命を限りに戦い、二人とも同じ所で討たれた。


《人見の考え方は、何とも潔いものです。目前の戦で味方の勝利は疑いないが、しかし幕府は非道を行い、その命運はすでに尽きようとしている。自分はその幕府から恩を受けてきて、老い先短く、その幕府の衰亡を見るに忍びないから、その前に華々しく戦って死ぬことにしたい、…。
 つまり彼は、幕府にはすでに見切りを付けているのですが、そこから受けた恩義には篤く、それに殉じようとしているわけです。
 現状を正確に把握しながら大局を見通し、正義を重んじ、恩義に篤く、自身の立場と名誉を重んじる、という考え方生き方は、第一流の武士だったと思われて、これこそ武家の誉れという気がします。もちろん、これが特筆されるということは、当時にあっても特異な存在だったのでしょうが、ここまで突き詰めることはないにしても、多くの武士がこの人に繋がる考え方生き方をしていたであろうと思うと、何かすがすがしい感じがします。
 話を聞いた本間が、まったく同意して、自分もそのように生きたいと考えながら、相手を欺き引き留めて自分こそがその先頭に立とうと考えるのも、爽やかです。
彼らにとっては、人生は真剣なゲームであって生きることは手段に過ぎず、現代のように生きること自体が目的だなどとはまったく考えないようです。もっとも、そうは言っても、何も本当に命を懸ける(と言うよりも、命を捨てる)ことまでしなくてもいいような気はしますが。
 相手が同じゲームの愛好者であり、優れた力量の人だと分かれば願ってもない好敵手であり、例え自分を欺こうとしたとしてもそれは戦いの一手なのであって、人見にして見れば、むしろその一手を見抜いていたことを誇ればよいだけのこと、すぐに同調して轡を並べて戦いに赴けるわけです。
 さて、そういうある意味での理想主義者に対して城中の反応はちょっと複雑です。みごとな武者ぶりでまともに向き合うのが武士の本懐ではあるのですが、噂に聞いた板東の荒武者とあって、ちょっと尻込み気分です。それに、相手は死に花を咲かせればいいのですが、こちらにはこれからなさねばならない大事があり、そのためには一兵たりとも大切です。ここは現実的に対応するのが肝要と、がむしゃらに迫る二人に遠矢を射かけて応戦するばかりです。
 二人にしては武功を上げることができないままで無念の最期だったでしょうが、ともあれ人見については自己の正義を貫いたその潔さによって、こうしてその名を残すことができました。とすると、本間については、となりますが、それは後の第3節で。》

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 こうしている間に、元弘三年正月末日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分けて、吉野、赤坂、金剛山へお向けになった。
 まず吉野へは二階堂出羽入道道蘊を大将として、ことさら他の軍勢を加えず、二万七千余騎で上道、下道、中道から三手になって向かう。
 赤坂へは、阿曽弾正少弼を大将としてその勢八万余騎が、まず天王寺、住吉に陣を張る。
 金剛山へは、陸奧右馬助を搦め手の大将としてその勢二十万騎が奈良路から向かわれた。
 中でも長崎悪四郎左衛門尉は特に侍大将を拝命して正面に向かわれたが、ことさら自軍の勢いを人に見せつけようと思ったのだろうか、一日遅れて向かった。その出で立ちは見る人の目を驚かした。
まず大将の旗印を持った騎馬、続いてたくましい馬に厚く大きな房を掛けて揃いの鎧を着た兵八百余騎が、本隊の二百mあまり前を、しずしずと馬を進めた。
 自分はその後を、くくり染めの鎧直垂に派手な袴を身につけ、紫の縅し毛の鎧に八匹の龍を金で打ち付けた白銀の五枚兜を首高に着て、銀色の脛当てに黄金作りの太刀二振りを帯び、一部黒という図抜けて大きな関東一の名馬に、干潟に小舟という情景を金銀蒔絵で描いた鞍を置いて山吹色の房を掛け、矢を三十六本差した銀の矢筈の大中黒の矢に本重籐の弓の真ん中を握って、小路を所狭しと歩ませた。
 片手に小手を付け軽装の鎧に太刀、弓矢を持った雑兵五百余人が二列に並び、馬の前後についてしずしずと進む。この後ろ四、五百m下がって思い思いに鎧を着けた兵十万余騎が兜の星を輝かし鎧の袖を並べて靴の底に打った釘のようにびっしりと四㎞ほど続いた。その勢いは張り詰めて天地を揺るがし、山川を動かすほどである。
 この他、外様の領主たちは五千騎、三千騎と分かれて昼夜十三日もの間引きも切らずに向かっていった。我が国は言うに及ばす、中国、インド、満州、東南アジアでもまだこれほどの大軍が動いたことは、滅多になかったことだと思わない人はなかったのだった。


《さて、いよいよ合戦の布陣で、八十万騎を三つに分けました。
 吉野は大塔宮にいるところで、そこへ二万七千余騎、赤坂は後ろ(次章5節)に「城の本人平野将監入道」とありますから、この人が楠から預かって籠もっていたのでしょう、そこへ八万余騎。金剛山というのは千早城のことのようで、赤坂城とは山続きにあるようですが、そこには楠自身がいたと思われ、ずっと後にその名が出てきます。彼は先に天王寺、住吉を平定したのですが、そこには留まらず、引き上げて本拠地に籠もっていたのでしょう。そこへはなんと二十万余騎が向かいます。
 幕府軍はその天王寺に陣を置きました。赤坂城まで直線で十八㎞あまり、今で言えば副都心から県境までにあたり、ずいぶん遠くに陣を置いたものですが、用心をしたのでしょうか。あるいは兵の多さからそういうことになったのでしょうか。
 さてその中で、大将長崎四郎左衛門というのは、以前、正中の変の時鎌倉の使者として上洛し、日野資朝・俊基を捕らえて鎌倉に連行した人(巻第一巻末)ですから、名のある武将のようです。あの時は格別の紹介はなかったのですが、今回はそのちょっとぶっ飛んだ人柄が克明に描かれます。彼の手勢は十万と言いますから、奈良路から金剛山に向かう隊の中の一員のようですが、その全軍の半分が彼の隊です。そのきらびやかに飾った四㎞(原文は五、六里)の隊列がしずしずと進む姿は、絵巻物さながら、見る人を圧倒したことでしょう。
 ただ、しかし十万の兵が二列ですから、片側五万人ですが、それが四㎞(中世の一里は一般には六百mとされます)というのは、ちょっと窮屈です。一里の長さが違うのかも知れません。
 また、この三軍を合計しても、三十一万騎ほどで、まだ五十万騎の残りがでて、勘定が合いません。その大方は京都に残したのでしょうか。また、播磨の赤松(前章)の討伐にも向かったのかも知れませんが、ちょっと説明不足の感があります。》

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 その頃、畿内・西国の謀反人が日に日に蜂起するということが六波羅から早馬を仕立てて鎌倉に報告される。相模入道は大変驚いて、それでは討手を送れということで相模守の一族その他東国八か国の中のしかるべき領主を促して上洛させる。まず一族としては、阿曽弾正少弼、名越遠江入道、大仏前陸奧守貞直、同じく武蔵左近将監、伊具右近大夫将監、陸奧右馬之助、外様の人々としては、千葉大介、宇都宮三河守、小山判官、武田伊豆三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆入道、葦名判官、三浦若狭五郎、千田太郎、城太宰大弐入道、佐佐木隠岐前司、同じく備中守、結城七郎左衛門尉、小田常陸前司、長崎四郎左衛門尉、同じく九郎左衛門尉、長江弥六右衛門尉、長沼駿河守、渋谷遠江守、河越三河入道、工藤次郎左衛門高景、狩野七郎左衛門尉、伊東常陸前司、同じく大和入道、安藤藤内左衛門尉、宇佐美摂津前司、二階堂出羽入道、同じく下野判官、同じく常陸介、安保左衛門入道、南部次郎、山城四郎左衛門尉、これらを初めとして主だった領主百三十二人、合わせてその軍勢三十万七千五百余騎が、九月二十日に鎌倉を発って十月八日に先陣が京都に着くと、後陣はまだ足柄・箱根に控えている。
 これだけでなく、河野九郎が四国の軍勢を率いて大船三百余艘で尼崎から上がって下京に着く。厚東入道、大内介、安芸熊谷が周防と長門の軍勢を引き連れて兵船二百余艘で兵庫から上がって西の京に着く。甲斐と信濃の源氏七千余騎が中山道を通って東山に着く。江馬越前守、淡河右京介が北陸道七か国の軍勢を率いて三万余騎で東坂本を通って上京に着く。
 すべて諸国七道の軍勢が我も我もと馳せ上ったので、京白河の家々にあふれ、醍醐、小栗栖、日野、勧修寺、嵯峨、仁和寺、太秦の辺り、西山、北山、賀茂、革堂、河崎、清水、六角堂の門の下、鐘楼の中までも軍勢の宿っていないところがなかった。日本は小国だといっても、これ程に人が多かったのだと、初めて驚くばかりである。


《「その軍勢三十万七千余騎」とは、ずいぶんな数です。
 ちなみに大日本帝国時代の軍人数は、昭和期の正規軍がおよそ三十万人だった(サイト「日本の軍人の数」)ようですし、現在の自衛隊の隊員数は陸海空合わせて二十三万人弱ですが、これらが一箇所に集まったということはないでしょう。
 サイトNAVITIMEで京都駅から箱根湯本駅までの無料道路距離をみると、四〇八キロと出ます。そこに三十万騎を一列に並べるとおよそ一・四メートル間隔、「騎」ですから馬だとすると、街道では三列でもかなりぎっしりになりそうです。
 その後にさらに加わった者もあって、次節ではそれらを合わせると八十万騎という壮大な数になったとあります。「白髪三千丈」の類いで、それぞれ0を一つ取ったくらいが妥当な数字のように思われますが、どうなのでしょうか。
 ともあれ、当時の耳目を驚かす大軍であった、ということではあります。》

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