その頃、畿内・西国の謀反人が日に日に蜂起するということが六波羅から早馬を仕立てて鎌倉に報告される。相模入道は大変驚いて、それでは討手を送れということで相模守の一族その他東国八か国の中のしかるべき領主を促して上洛させる。まず一族としては、阿曽弾正少弼、名越遠江入道、大仏前陸奧守貞直、同じく武蔵左近将監、伊具右近大夫将監、陸奧右馬之助、外様の人々としては、千葉大介、宇都宮三河守、小山判官、武田伊豆三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆入道、葦名判官、三浦若狭五郎、千田太郎、城太宰大弐入道、佐佐木隠岐前司、同じく備中守、結城七郎左衛門尉、小田常陸前司、長崎四郎左衛門尉、同じく九郎左衛門尉、長江弥六右衛門尉、長沼駿河守、渋谷遠江守、河越三河入道、工藤次郎左衛門高景、狩野七郎左衛門尉、伊東常陸前司、同じく大和入道、安藤藤内左衛門尉、宇佐美摂津前司、二階堂出羽入道、同じく下野判官、同じく常陸介、安保左衛門入道、南部次郎、山城四郎左衛門尉、これらを初めとして主だった領主百三十二人、合わせてその軍勢三十万七千五百余騎が、九月二十日に鎌倉を発って十月八日に先陣が京都に着くと、後陣はまだ足柄・箱根に控えている。
 これだけでなく、河野九郎が四国の軍勢を率いて大船三百余艘で尼崎から上がって下京に着く。厚東入道、大内介、安芸熊谷が周防と長門の軍勢を引き連れて兵船二百余艘で兵庫から上がって西の京に着く。甲斐と信濃の源氏七千余騎が中山道を通って東山に着く。江馬越前守、淡河右京介が北陸道七か国の軍勢を率いて三万余騎で東坂本を通って上京に着く。
 すべて諸国七道の軍勢が我も我もと馳せ上ったので、京白河の家々にあふれ、醍醐、小栗栖、日野、勧修寺、嵯峨、仁和寺、太秦の辺り、西山、北山、賀茂、革堂、河崎、清水、六角堂の門の下、鐘楼の中までも軍勢の宿っていないところがなかった。日本は小国だといっても、これ程に人が多かったのだと、初めて驚くばかりである。


《「その軍勢三十万七千余騎」とは、ずいぶんな数です。
 ちなみに大日本帝国時代の軍人数は、昭和期の正規軍がおよそ三十万人だった(サイト「日本の軍人の数」)ようですし、現在の自衛隊の隊員数は陸海空合わせて二十三万人弱ですが、これらが一箇所に集まったということはないでしょう。
 サイトNAVITIMEで京都駅から箱根湯本駅までの無料道路距離をみると、四〇八キロと出ます。そこに三十万騎を一列に並べるとおよそ一・四メートル間隔、「騎」ですから馬だとすると、街道では三列でもかなりぎっしりになりそうです。
 その後にさらに加わった者もあって、次節ではそれらを合わせると八十万騎という壮大な数になったとあります。「白髪三千丈」の類いで、それぞれ0を一つ取ったくらいが妥当な数字のように思われますが、どうなのでしょうか。
 ともあれ、当時の耳目を驚かす大軍であった、ということではあります。》

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